野球解説者の山田久志さんが3月18日放送の『若狭敬一のスポ音』に出演し、昨年11月11日に亡くなった元ロッテオリオンズ投手の村田兆治さんについて語りました。
村田さんの現役時代、長年のライバルだった山田さんはどう見ていたのでしょうか?
名投手・村田兆治を振り返る。人生は先発完投。トークも先発完投?
お互いを知っていた
村田さんが亡くなられたのは自宅の火災による一酸化炭素中毒でした。
山田「思い出したくない話だけども、ショック受けたね。彼とは、結構いろんなところで接点があった。割と野球界の中でも付き合った方だからね。お互いがお互いを知ってた。そういうこともあるんでね」
同じパ・リーグで投げ合ったライバル同士でもあり、名球会で一緒だったこともあり、プライベートでも食事したりしていたそうです。
山田「一言で言えば頑固者。良く言えば、こうと決めたら絶対自分の道を行く。悪く言えば融通が利かない。
彼はよく色紙の中にね『人生は先発完投』って書いてたね。彼らしいと思ってた」
始めたことは最後まで貫き通すのが、村田さんの人生のモットーだったそうです。
山田「思い出したくない話だけども、ショック受けたね。彼とは、結構いろんなところで接点があった。割と野球界の中でも付き合った方だからね。お互いがお互いを知ってた。そういうこともあるんでね」
同じパ・リーグで投げ合ったライバル同士でもあり、名球会で一緒だったこともあり、プライベートでも食事したりしていたそうです。
山田「一言で言えば頑固者。良く言えば、こうと決めたら絶対自分の道を行く。悪く言えば融通が利かない。
彼はよく色紙の中にね『人生は先発完投』って書いてたね。彼らしいと思ってた」
始めたことは最後まで貫き通すのが、村田さんの人生のモットーだったそうです。
ひたすら速さを追及
村田さんは山田さんと同じ1967年のドラフト1位でロッテオリオンズに入団。
広島県にある福山電波工業高校(現在の近大福山高校)からロッテに入りました。
通算で215勝604試合。実に184完投。まさに先発完投型のピッチャーでした。
村田さんと言えば豪快な「マサカリ投法」。
実はあの投げ方、プロ入り後に自分で考えてできた投げ方なんだとか。
実はプロ入り当初、コントロールの悪さが目立った村田さんは、それでも速い球を追求し、さらにフォークボールを覚えた結果が、反動をつけて投げるあの独特のフォームになったそうです。
当時はパ・リーグもDH導入前で、山田さんはバッターボックスにいて村田さんと対戦したことがありました。
山田「速いしね、怖くてバットなんか振れない、どこへ投げてくるかわからないから。もう三振でいいですっていう、若かりし頃はそういうピッチャーだったね」
広島県にある福山電波工業高校(現在の近大福山高校)からロッテに入りました。
通算で215勝604試合。実に184完投。まさに先発完投型のピッチャーでした。
村田さんと言えば豪快な「マサカリ投法」。
実はあの投げ方、プロ入り後に自分で考えてできた投げ方なんだとか。
実はプロ入り当初、コントロールの悪さが目立った村田さんは、それでも速い球を追求し、さらにフォークボールを覚えた結果が、反動をつけて投げるあの独特のフォームになったそうです。
当時はパ・リーグもDH導入前で、山田さんはバッターボックスにいて村田さんと対戦したことがありました。
山田「速いしね、怖くてバットなんか振れない、どこへ投げてくるかわからないから。もう三振でいいですっていう、若かりし頃はそういうピッチャーだったね」
ロッテの打線は凄かった
山田さんは「村田さんだったら勝てる」と最初は思ったそうです。
山田「ただね、兆治が投げてる頃のロッテ打線ってすごかったんだよ。打線は12球団1と言われてた。
外国人ではロペス、アルトマンとかいてね、江藤(慎一)さん、山崎(裕之)さん、有藤(通世)さん、そういう面々がダーッといて大変だったんだ」
山崎さん、通算2,081安打。有藤さん、通算2,057安打。江藤さんは、史上初のセ・パ両リーグでの首位打者。
1974年にロッテが日本一になった時には「ミサイル打線」と呼ばれていました。
後に三冠王となる落合博満選手のプロ入りする前の話。
ちなみに落合さんは1978年のドラフト3位でロッテに入団しました。
山田「落合が4番張ってる頃のロッテは大したことない。ピッチャーは村田兆治、成田(文男)さん、木樽(正明)さんの三本柱に金田(留広)さんとかね。この時のロッテが強かった」
年代にすると1969~1977年辺りだそうです。
山田「ただね、兆治が投げてる頃のロッテ打線ってすごかったんだよ。打線は12球団1と言われてた。
外国人ではロペス、アルトマンとかいてね、江藤(慎一)さん、山崎(裕之)さん、有藤(通世)さん、そういう面々がダーッといて大変だったんだ」
山崎さん、通算2,081安打。有藤さん、通算2,057安打。江藤さんは、史上初のセ・パ両リーグでの首位打者。
1974年にロッテが日本一になった時には「ミサイル打線」と呼ばれていました。
後に三冠王となる落合博満選手のプロ入りする前の話。
ちなみに落合さんは1978年のドラフト3位でロッテに入団しました。
山田「落合が4番張ってる頃のロッテは大したことない。ピッチャーは村田兆治、成田(文男)さん、木樽(正明)さんの三本柱に金田(留広)さんとかね。この時のロッテが強かった」
年代にすると1969~1977年辺りだそうです。
山田久志をやっつけろ
山田「金やん(金田正一)がロッテの監督だった。阪急とロッテはガチガチ勝負だ。だから村田は、私をもの凄い意識してたの。当時は、みんなやっつけるのは阪急なんだ」
セ・リーグで言えば、花形のジャイアンツをやっつけないと優勝はない、という図式と同じです。各球団のピッチャー陣も闘志むき出しできたそうです。
山田「東尾(修)でも鈴木啓示さんでも、山田をやっつけろだ。その最先端にいたのが村田兆治だった。そういう男だった。ガーッって見るからに分かるんだもん」
1974年(昭和49年)はロッテと阪急で熾烈な優勝争いが展開されました。結果は、ロッテ、69勝50敗11分。阪急、69勝51敗10分と勝率の差でロッテが優勝しました。
山田「あの時、阪急やられたんだ。最後の試合、兆治に完璧にやられてね、負けた」
ちなみに、この時はもう2リーグ制になっており、ロッテの日本シリーズの相手がドラゴンズ。ドラゴンズを下してロッテが日本一になりました。
セ・リーグで言えば、花形のジャイアンツをやっつけないと優勝はない、という図式と同じです。各球団のピッチャー陣も闘志むき出しできたそうです。
山田「東尾(修)でも鈴木啓示さんでも、山田をやっつけろだ。その最先端にいたのが村田兆治だった。そういう男だった。ガーッって見るからに分かるんだもん」
1974年(昭和49年)はロッテと阪急で熾烈な優勝争いが展開されました。結果は、ロッテ、69勝50敗11分。阪急、69勝51敗10分と勝率の差でロッテが優勝しました。
山田「あの時、阪急やられたんだ。最後の試合、兆治に完璧にやられてね、負けた」
ちなみに、この時はもう2リーグ制になっており、ロッテの日本シリーズの相手がドラゴンズ。ドラゴンズを下してロッテが日本一になりました。
野球の話が止まらない
山田「ロッテの村田、阪急の山田で開幕戦もやったし、彼とは20年ぐらい戦ってるんですよ。とにかく野球の話が好きでね」
プライベートで話すのも野球のことばかりだったという村田さん。
山田さんは、村田さんと西武のエース・東尾修さんと3人で、3時間ほどの飲み会をしたことがあるそうです。
山田「2時間半は兆治がしゃべってたね。俺と東尾は30分ぐらい。野球の話したら終わらないんだもん。ずっと野球の話。ついていけないよ」
プライベートで話すのも野球のことばかりだったという村田さん。
山田さんは、村田さんと西武のエース・東尾修さんと3人で、3時間ほどの飲み会をしたことがあるそうです。
山田「2時間半は兆治がしゃべってたね。俺と東尾は30分ぐらい。野球の話したら終わらないんだもん。ずっと野球の話。ついていけないよ」
人生は先発完投
さらに村田さんの野球に対するエピソードを語る山田さん。
村田さんは、新聞で『山田、キャンプで250球の熱投』という記事を読んで、ライバル心から300球投げたことがあるんだとか。
山田「そこまでライバル意識もあれば、負けず嫌い。そういう性格の男だったね。
金田(正一)さんを慕っててね。自分がここまでになったのは金田さんのおかげだってずっと思ってる人間だったから、天国で金田さんと会ってると思いますよ」
天国で村田さんは、金田さんと野球の話を続けているんでしょうね。
(尾関)
村田さんは、新聞で『山田、キャンプで250球の熱投』という記事を読んで、ライバル心から300球投げたことがあるんだとか。
山田「そこまでライバル意識もあれば、負けず嫌い。そういう性格の男だったね。
金田(正一)さんを慕っててね。自分がここまでになったのは金田さんのおかげだってずっと思ってる人間だったから、天国で金田さんと会ってると思いますよ」
天国で村田さんは、金田さんと野球の話を続けているんでしょうね。
(尾関)
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