若狭敬一のスポ音

浅尾拓也、プロ入り直後に毎日していた意外な勉強とは?

中日ドラゴンズ二軍コーチ、浅尾拓也さんが1月23日放送の『若狭敬一のスポ音』(CBCラジオ)に出演しました。
若狭敬一アナウンサーを前に、現役時代のことや、プロ入りまでの話を赤裸々に語りました。

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球史に残るセットアッパー

浅尾拓也コーチは愛知県知多市出身。
2006年、日本福祉大学から、ドラフト3位でドラゴンズへ入団。2018年、34歳の若さで引退。通算416試合に登板し、200ホールドを上げています。2010~2011年にはドラゴンズのリーグ連覇に貢献しました。

2010年には日本プロ野球史上最高の47ホールドを記録。2011年にはリーグ最多の79試合に登板し、リーグ最多の45ホールドを記録。防御率はなんと0.41。セットアッパーとしては異例の最優秀選手(MVP)に輝きました。
 

現役時代のルーティン

球界を代表するセットアッパーになった浅尾さん、現役時代、リリーフ登板する前はどのように肩を作っていたのでしょうか?
ブルペンでは、何かルーティンがあったのかを聞くと、「球数はほぼ決まってましたね。一回目の作りは13球だったかなぁ」と浅尾コーチ。

この13球の割合まで決まっていたそうです。ワインドアップでストレート、ストレート。変化球3種類。これを繰り返して10球。

インコース、アウトコースを投げて、最後の一球は上手くいかなかったボールを投げていたそうです。これで一回肩を作り、二回目は試合状況を見ながらなので、特にルーティンはなかったんだとか。

ブルペンに、いざ登板の連絡がきた時は、だいたい出番が分かっているので動きやすかったそうです。それよりもキツいのが敗戦処理での登板。

浅尾「行くのかな?行かないのかな?誰が行くんだろう?っていう感じ。予想はするんですけど、ここ自分か?みたいなところが結構あったので、結局、最後まで掴めなかったですね」

勝ちパターンでの登板の方が、肩も作りやすく、負担も少なかったんだそうです。
 

二軍落ちした時のモチベーション

ドラゴンズのリーグ連覇にも貢献した浅尾さんですが、現役最後の方は二軍での生活も続きました。MVPに輝いた選手が二軍落ちという落差に、腐らずにいた心の持ちようを聞きました。

浅尾「自分がまだ若い時に、ベテランの選手が二軍にいて、すごい頑張ってたんです。なので、歳を重ねてベテランになったら頑張らないといけないな、それがドラゴンズに対する感謝の気持ちだし、次につなげてく気持ちだと、ずっと思ってました。

腐りたい気持ちはわかるじゃないですか。それでも一軍に上がるために必死に練習してる姿を見て、カッコいいな、自分もそうならなきゃいけないなって感じましたね」

 

よくある質問

若狭「こういう質問を直接聞くのは初めてなんですが、もっと投げずに済んだら、怪我もなく何年もプロで活躍できたのになぁ、なんて思いませんか?」

浅尾「一回もないですね。思ったこともないです(笑)。
よく言われるんですけど、なんだろうな。たぶん自分の調整不足なんですよ。本当にそうなんです」

2011年には79試合に登板したのですが、そんなに投げている感覚がないほど疲れていなかったそうです。

浅尾「ブルペンで出番が分かってて、一回の作りで行けたりしたことが多かったので、すごい合わせやすかったですね。酷使とよく言われるんですけど、全然そんなことないですね」

若狭「自分のプロ野球生活はどうでしたか?」

浅尾「たくさんやらせてもらって十分です」

浅尾コーチのこの言葉は、次のリスナーからの質問への答えを聞くと納得できるような気がします。
 

もし生まれ変わったら

「もし生まれ変わるとしたら、また野球選手になりたいですか?他になってみたい職業などはありますか?」(Aさん)

浅尾「もう一回、野球選手になってみたいですけど、なれないと思います。野球選手になった経緯が運が良すぎて、もうなれる気がしないです」

高校から大学へ行けたのもラッキーだったそうです。地元愛知県の常滑北高校時代、日本福祉大学からピッチャーとして注目され入学。
日本福祉大学に決めた理由は?

浅尾「誘いが日本福祉大学しか来なかったですね。それで、野球で大学に行けるんだと思って入りました」

まさか野球で大学に行けるとは思っていなかったそうです。

若狭「常滑北高校3年の浅尾拓也の時の夢は何だったんですか?」

浅尾「いや、もう何もなかったですね。ただ単に今を生きるっていう感じです」

若狭「カッコよく言えばね」

浅尾「そうです(笑い」

ごく普通の高校生だったという浅尾コーチです。
 

タイミングよく調子が上がった

浅尾「大学で野球できるという時点ですごいことなんですけど、大学の3年くらいが、ちょうどドラフトにかけて調子がガンガンって上がってたんです。その調子の上がるタイミングもすごい良かったですし」

調子の上がるタイミングが、大学1年だったり、4年の秋ぐらいだと、ドラフトの候補にもかからなかった可能性もあります。

浅尾「なんか本当に上手く行き過ぎてプロに入れたっていう感じなんです」

ちなみにドラフト前、12球団中声がかかったのは3球団。ヤクルト、西武、そして中日だったそうです。
 

選手名鑑で勉強

若狭「高校生の時に、甲子園での高校球児の活躍は見たりしてたんですか?」
浅尾「そんなに見てなかったので、全然わかんなかったんですよね」

そもそも甲子園をテレビで見ることがあまりなく、強い高校の名前を知っているぐらいで、周りの人ほど詳しくなかったんだとか。本当に、知多にいる普通の高校生だったそうです。

プロ入り後は、ナゴヤ球場で、恒例の新人合同自主トレが行われますが、その時の心境を聞くと。

浅尾「今だから言えるけど、正直、選手はほとんどわかんなかったです。名前を覚えるので必死で。失礼がないように、ちゃんと毎日選手名鑑で勉強しました」

当時の名二遊間、アライバコンビも、どっちが荒木さんか井端さんか、顔と名前が一致しなかったそうです。
 

憧れは藤川球児?

入団当時、唯一、顔と名前が一致していたのは立浪和義さんと朝倉健太さん。

浅尾「山本さんもビッグネームで名前はもちろん知ってるんですよ。でも、あの人が山本昌さんなんだって感じでした。名古屋に住んどきながら、本当にめちゃくちゃ失礼な話なんですけど」

野球一筋、必ずプロになるというタイプではなく、普通の少年がプロ野球選手になるという、まさにシンデレラストーリー。

浅尾「だから憧れの選手誰ですか?って聞かれても、本当にわかんなくて。藤川球児さんがその時活躍してたんで、藤川さんて言わしてもらったら、本当にすごかったんですよ」

適当に言ったらすごかった藤川さんもですが、浅尾コーチもすごい選手でした。 
(尾関)
 
若狭敬一のスポ音
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2021年01月23日15時06分~抜粋

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