CBCラジオ『伝令!武将が現世でラジオを始めたようです!』は、400年の時を経て現代に蘇った名古屋にゆかりの武将たちと足軽集団・名古屋おもてなし武将隊(R)。日本の歴史を楽しく紹介する歴史バラエティ番組です。
1月17日の放送では、豊臣秀吉・徳川家康・陣笠隊の足軽・十吾の3名が出演し、清州同盟について取り上げました。
豊臣秀吉が上杉景勝に転封を命じた日
「この日何の日?」コーナーでは、先週土曜日から今日までの1週間の日付で過去に起こった歴史上の出来事・記念日を解説します。
今回の話題は1562年1月15日に織田信長と徳川家康の間で結ばれた「清州同盟」について。
その前に3人が盛り上がったのが、1553年1月13日の織田信長の傅役(もりやく)だった平手政秀が自刃した件。
傅役は教育係で信長を諫め、指導する役。政秀は織田家中で次席家老という重臣です。さらに、信長と斉藤道三の娘・濃姫の結婚をまとめるなど、外交に優れた人物でしたが、信長のうつけが収まらぬため、自刃で諫めたとされています。
豊臣秀吉「儂、当時は小者という草履取りなどをしておったんじゃが、織田家中で皆が『何が起こった?』と混乱を招いた事件じゃ」
徳川家康「信長殿はこの事件を機にうつけから変わり、平手殿のために政秀寺を建立して菩提を弔い、そののち大名として立派に成長しておる」
当時は信長の父・信秀が死去した後で織田家中も不安定でした。そんな中、うつけ者のままの信長を諫めるための行動だったと言われますが、真実は不明です。
今回の話題は1562年1月15日に織田信長と徳川家康の間で結ばれた「清州同盟」について。
その前に3人が盛り上がったのが、1553年1月13日の織田信長の傅役(もりやく)だった平手政秀が自刃した件。
傅役は教育係で信長を諫め、指導する役。政秀は織田家中で次席家老という重臣です。さらに、信長と斉藤道三の娘・濃姫の結婚をまとめるなど、外交に優れた人物でしたが、信長のうつけが収まらぬため、自刃で諫めたとされています。
豊臣秀吉「儂、当時は小者という草履取りなどをしておったんじゃが、織田家中で皆が『何が起こった?』と混乱を招いた事件じゃ」
徳川家康「信長殿はこの事件を機にうつけから変わり、平手殿のために政秀寺を建立して菩提を弔い、そののち大名として立派に成長しておる」
当時は信長の父・信秀が死去した後で織田家中も不安定でした。そんな中、うつけ者のままの信長を諫めるための行動だったと言われますが、真実は不明です。
同盟を結んだ経緯
「清州同盟」は、織田信長と徳川家康が結んだ同盟です。
家康「今川義元様亡き後、不安定な状況の中で結ばれた相互の防御のための同盟だったわけじゃ」
東の駿河国の今川家と敵対関係となった家康が西を接していた尾張国織田家との接近をもくろみました。また、信長も美濃国の斎藤氏と争っていたためお互いにとって利のある同盟だったのです。
家康「一般的な同盟というと、現世の者たちは長く仲間同士で互いに協力し合うイメージがあるかもしれんが、戦国時代はそうではない」
同盟は数日で破棄されることもあった時代、信長と家康の清州同盟は多少変質はしながらも、本能寺の変で信長が斃れるまで破られることがなかった稀有な同盟でもありました。
同盟以外では政略結婚もありましたが、これも状況が変われば離縁して返されたり、妻子が人質として利用され、場合によっては殺されることも珍しくなかったのです。
家康「今川義元様亡き後、不安定な状況の中で結ばれた相互の防御のための同盟だったわけじゃ」
東の駿河国の今川家と敵対関係となった家康が西を接していた尾張国織田家との接近をもくろみました。また、信長も美濃国の斎藤氏と争っていたためお互いにとって利のある同盟だったのです。
家康「一般的な同盟というと、現世の者たちは長く仲間同士で互いに協力し合うイメージがあるかもしれんが、戦国時代はそうではない」
同盟は数日で破棄されることもあった時代、信長と家康の清州同盟は多少変質はしながらも、本能寺の変で信長が斃れるまで破られることがなかった稀有な同盟でもありました。
同盟以外では政略結婚もありましたが、これも状況が変われば離縁して返されたり、妻子が人質として利用され、場合によっては殺されることも珍しくなかったのです。
互いの命運を賭けた同盟
清州同盟はまさに織田家と徳川家(同盟締結時は松平家)同士が命運・家・そして未来を賭けて結んだ実務的な同盟。
家康「儂の覚悟としては、まず嫡男の信康を人質に送ったわけじゃ。要は、儂が裏切ったら信康は死ぬ(殺される)。信長殿の覚悟と言えば、三河方面の防衛を儂、家康に全面的に一任したんじゃ。儂がもし裏切ったら、背後が手薄になって大崩壊する」
十吾「これはお互いを信頼していないとできないことを、それぞれなさっていたと」
信長にとっては西への勢力拡大に全集中できる体制を作り、家康は三河から今川氏の領土へ攻め入るための基盤を作るために、お互いの利害が一致したと言えます。
なお、この同盟は攻守同盟(どちらか一方が攻められたらもう一方が助ける)でもありました。長く保たれたこともですが、当時は裏切りや寝返りが日常茶飯事だったことを考えると、この同盟がいかに珍しいことであったかが伺えます。
この同盟があったからこそ、信長は美濃攻略に力を入れることができ、家康も東へ領土拡大に動くことができたため、まさにWin-Winだったと言える一方で、当時は家康が隠したという扱いを受けたという記録もあるようです。
(葉月智世)
家康「儂の覚悟としては、まず嫡男の信康を人質に送ったわけじゃ。要は、儂が裏切ったら信康は死ぬ(殺される)。信長殿の覚悟と言えば、三河方面の防衛を儂、家康に全面的に一任したんじゃ。儂がもし裏切ったら、背後が手薄になって大崩壊する」
十吾「これはお互いを信頼していないとできないことを、それぞれなさっていたと」
信長にとっては西への勢力拡大に全集中できる体制を作り、家康は三河から今川氏の領土へ攻め入るための基盤を作るために、お互いの利害が一致したと言えます。
なお、この同盟は攻守同盟(どちらか一方が攻められたらもう一方が助ける)でもありました。長く保たれたこともですが、当時は裏切りや寝返りが日常茶飯事だったことを考えると、この同盟がいかに珍しいことであったかが伺えます。
この同盟があったからこそ、信長は美濃攻略に力を入れることができ、家康も東へ領土拡大に動くことができたため、まさにWin-Winだったと言える一方で、当時は家康が隠したという扱いを受けたという記録もあるようです。
(葉月智世)
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