元TBSアナウンサーでフリーアナウンサーの久米宏さんが、1月1日に肺がんのため亡くなっていたことがわかりました。
1月14日のCBCラジオ『つボイノリオの聞けば聞くほど』では、つボイノリオとBOYS AND MEN本田剛文が、リスナーの投稿を交えながら久米さんの代表番組を振り返ります。
「久米宏」という人物
久米さんはTBS「ザ・ベストテン」やテレビ朝日「ニュースステーション」などで知られます。多くの人物に影響を与えたその仕事ぶりや人柄は、どのようなものだったのでしょうか。
「アナウンサーと言えば、自分自身の意見を言ってはいけないという不文律があったかと思いますが、久米さんは上手にご自身の意見や考えを織り込みながら報道されていたように思います」(Aさん)
民放の運営には欠かせないスポンサーですが、そこに対しても看過できない部分には毅然と切り込むなど、自身の信念を曲げないスタイルが視聴者の目には好意的だったようです。
「ニュースステーション最後のシーンでは、ビールを一杯飲み干して『お疲れ様、さようなら』と言ったのをよく覚えています。死去の直前に大好きなサイダーを一気に飲み干していたのは、自分の人生の最後にこの時を思い出していたのではないかなと思います」(Bさん)
つボイ「私も民放が長いものですからこのシーンを何度も繰り返し見ていますが、ビールのラベルが移らないようにきちんと配慮しているんです」
18年務めた報道番組の、最後の最後まで手を抜かない真摯な姿勢がうかがえました。
「アナウンサーと言えば、自分自身の意見を言ってはいけないという不文律があったかと思いますが、久米さんは上手にご自身の意見や考えを織り込みながら報道されていたように思います」(Aさん)
民放の運営には欠かせないスポンサーですが、そこに対しても看過できない部分には毅然と切り込むなど、自身の信念を曲げないスタイルが視聴者の目には好意的だったようです。
「ニュースステーション最後のシーンでは、ビールを一杯飲み干して『お疲れ様、さようなら』と言ったのをよく覚えています。死去の直前に大好きなサイダーを一気に飲み干していたのは、自分の人生の最後にこの時を思い出していたのではないかなと思います」(Bさん)
つボイ「私も民放が長いものですからこのシーンを何度も繰り返し見ていますが、ビールのラベルが移らないようにきちんと配慮しているんです」
18年務めた報道番組の、最後の最後まで手を抜かない真摯な姿勢がうかがえました。
伝説の歌番組
久米さんと言えば伝説の音楽番組「ザ・ベストテン」で、1978年から黒柳徹子さんと共に司会を担当していました。
「私が通っていた高校は勉学が厳しかったうえに部活も忙しく、毎日テレビを見る時間など取れませんでしたが、それでもベストテンだけは見ていました。大学に入ってからも寄宿舎の小さな白黒テレビで、木曜日はなるべくバイトを入れないで見ていました」(Cさん)
令和の今でも「歌番組の金字塔」として語り継がれる「ザ・ベストテン」。当時、夢中になって番組を見ていた人も多いのではないでしょうか。
つボイ「今もやっていたらボイメンも出てたと思うよ」
本田「世代的にリアルタイムでは番組を見ていないんですが、やっぱりすごい番組だったって方々から聞きます」
「ザ・ベストテン」は、番組独自の集計方法で算出した音楽ランキングとともに歌手が生歌を披露する音楽番組。スタジオでは歌手が生放送で歌唱する傍ら、スタジオに来られない歌手には「追っかけ」中継で地方から出演するなど、これまでにない臨場感あふれる放送が人気を博し、伝説となりました。
そんな番組の盛り上がりに欠かせなかったのが、久米さんの司会。黒柳さんとの息の合ったトークも、番組の人気をさらに盛り立てていたのです。
「私が通っていた高校は勉学が厳しかったうえに部活も忙しく、毎日テレビを見る時間など取れませんでしたが、それでもベストテンだけは見ていました。大学に入ってからも寄宿舎の小さな白黒テレビで、木曜日はなるべくバイトを入れないで見ていました」(Cさん)
令和の今でも「歌番組の金字塔」として語り継がれる「ザ・ベストテン」。当時、夢中になって番組を見ていた人も多いのではないでしょうか。
つボイ「今もやっていたらボイメンも出てたと思うよ」
本田「世代的にリアルタイムでは番組を見ていないんですが、やっぱりすごい番組だったって方々から聞きます」
「ザ・ベストテン」は、番組独自の集計方法で算出した音楽ランキングとともに歌手が生歌を披露する音楽番組。スタジオでは歌手が生放送で歌唱する傍ら、スタジオに来られない歌手には「追っかけ」中継で地方から出演するなど、これまでにない臨場感あふれる放送が人気を博し、伝説となりました。
そんな番組の盛り上がりに欠かせなかったのが、久米さんの司会。黒柳さんとの息の合ったトークも、番組の人気をさらに盛り立てていたのです。
報道の革命児
そんな久米さんは1979年にTBSを退社後、フリーアナウンサーとして活動しました。1985年にはテレビ朝日の報道番組「ニュースステーション」のメインキャスターに就任。
「久米さんと言えばやはりニュースステーションです。久米さん自身の見解を述べたり、当時中学生だった私にもわかりやすい、そんな番組でした」(Dさん)
「歯に衣着せぬようにも見える報道スタイル。裏ではスポンサーとのしがらみなどもあったかもしれませんが、その限られた制約の中でも必死に視聴者に事実を伝える姿勢を貫いた、アンカーマンとしての姿が皆を引き付けたのではないでしょうか」(Eさん)
つボイ「表現の自由とは言いつつも、民放が持っている宿命のようなものと常に戦っていた人ではないかな」
戦後の社会で育った久米さんは、その経験から「誰もが自由にものを言える社会」を目指し、報道の場に立ち続けました。そして「国民を戦争に向かってミスリードしたという過去が、戦後の民間放送にはありません。これからもそういうことがないように祈っております」という言葉を残しています。
時に批判を浴びながらも真っすぐに事実と対峙し、これまでのニュース番組を変えてきた久米さん。そんな彼の言葉、生き様を胸に刻んだつボイと本田でした。
(吉村)
「久米さんと言えばやはりニュースステーションです。久米さん自身の見解を述べたり、当時中学生だった私にもわかりやすい、そんな番組でした」(Dさん)
「歯に衣着せぬようにも見える報道スタイル。裏ではスポンサーとのしがらみなどもあったかもしれませんが、その限られた制約の中でも必死に視聴者に事実を伝える姿勢を貫いた、アンカーマンとしての姿が皆を引き付けたのではないでしょうか」(Eさん)
つボイ「表現の自由とは言いつつも、民放が持っている宿命のようなものと常に戦っていた人ではないかな」
戦後の社会で育った久米さんは、その経験から「誰もが自由にものを言える社会」を目指し、報道の場に立ち続けました。そして「国民を戦争に向かってミスリードしたという過去が、戦後の民間放送にはありません。これからもそういうことがないように祈っております」という言葉を残しています。
時に批判を浴びながらも真っすぐに事実と対峙し、これまでのニュース番組を変えてきた久米さん。そんな彼の言葉、生き様を胸に刻んだつボイと本田でした。
(吉村)
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