伝令!武将が現世でラジオを始めたようです!

豊臣秀吉が信頼していた上杉景勝に命じた「会津転封」が家康に及ぼした影響

CBCラジオ『伝令!武将が現世でラジオを始めたようです!』は、400年の時を経て現代に蘇った名古屋にゆかりの武将たちと足軽集団・名古屋おもてなし武将隊(R)。日本の歴史を楽しく紹介する歴史バラエティ番組です。

1月10日の放送では、豊臣秀吉・徳川家康・陣笠隊の足軽・十吾の3名が出演。「この日何の日?」コーナーで「会津転封」について取り上げました。

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豊臣秀吉が上杉景勝に転封を命じた日

「この日何の日?」コーナーは、先週土曜日から今日までの1週間の日付で過去に起こった歴史上の出来事・記念日を解説。いくつかある中、話題は1598年1月10日に豊臣秀吉が、上杉景勝に越後から会津転封を命じた件について。

秀吉「この上杉景勝という男はな、名前は聞いたことがあるものが多いと思うんじゃけども、上杉謙信様の養子の1人じゃ。越後国、今の新潟県を治めておった者での。儂が会津へ行って治めてくれと命じた日じゃ」

上杉謙信は生涯独身を貫いたため、正室も側室も実子もいませんでした。ただ、異母妹の綾御前(仙桃院)がおり、彼女が産んだ子が謙信の養子・上杉景勝になります。謙信の血筋を残す上で重要な役割を果たしました。

会津は要衝だった

そもそも、当時会津を治めていたのは蒲生氏郷(がもう うじさと)。

1590年(小田原征伐後)に会津42万石を与えられ、黒川城(のちの若松城)を拠点に統治していました。しかし1595年に病死、後を継いだ子の蒲生秀行はまだまだ10代前半です。経験不足なだけでなく、氏郷というカリスマを失った家中の結束が弱まったこと、有力家臣同士の対立・家中統制への不安があったとされています。

秀吉「もうちょっとおさまりがいい者を会津へ行かせようっちゅうことで、上杉景勝に領地を加増。その上で会津行きを命じたんじゃな」

徳川家康「この加増で(景勝は)130万石になりましたな」

十吾「会津の地は、何か大切な地だったのでござりますか?」

当時の会津(現在の福島県)は、東北地方(奥羽)の要となる大事な場所でした。北には最上氏や伊達政宗など有力武将がいて、遠く離れた大坂にいた秀吉にとって目が届きにくく、安心できる者でないと任せられない地だったのです。

家康とも無関係ではなかった出来事

秀吉曰く、もしこの会津あたりで戦が勃発した際は、要所となるこの地で足止めしてもらわないと秀吉も困るため、誰を配置するかは重要だったとのこと。

十吾「東北の勢力をけん制するために必要だったと」

秀吉「蒲生の家の者たちは、織田信長様の頃から仕えておってな。儂も贔屓している家の者たちだったんじゃ。だけど、その者たちがちょっとやらかしてしもうたために、儂が目を付けていた上杉景勝に会津を治めてもらったんじゃ」

「上杉景勝と徳川家康にも所縁がある」と水を向けられると、家康も「そうじゃ」と話を引き継ぎます。

家康「皆が聞いたことがあるのは『五大老』という言葉かもしれん。我らの時代にはなかった言葉じゃが、わかりやすく言うと、秀吉殿に仕えた5人の有力武将じゃ。儂、前田利家殿、上杉景勝殿、毛利輝元殿、宇喜多秀家殿と、こういう序列になるんじゃが、儂にとって秀吉殿以外に怖い敵はいなかった」

上杉景勝が会津に行ったということは、家康が簡単には動けなくなるということにつながります。背後(北)に有力武将がいることで、襲われる危険が出てくるからです。

ただ、家康にとって秀吉は「大天才だった」とのこと。秀吉1人のカリスマで全国の武将たちを仕組みでもなく、恐怖でもなく秀吉個人の力で治めていたと賞賛。
上杉景勝が会津に移った後に秀吉は没しますが、その後の「直江状」、そして関ケ原の戦いへとつながっていくことを考えると、この出来事は歴史において重要だったと言えそうです。
(葉月智世)
 
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2026年01月10日11時43分~抜粋

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