CBCラジオ『伝令!武将が現世でラジオを始めたようです!』は、400年の時を経て現代に蘇った名古屋にゆかりの武将たちと足軽集団・名古屋おもてなし武将隊(R)。日本の歴史を楽しく紹介する歴史バラエティ番組です。
12月6日の放送では、織田信長・前田利家・陣笠隊の足軽・太助の3名が出演。
「この日何の日?」コーナーでは徳川家康の祖父について取り上げました。
「守山崩れ」が起こった日
「この日何の日?」コーナーは、先週土曜日から今日までの1週間の日付で過去に起こった歴史上の出来事・記念日を解説。いくつかある中、話題は1535年12月5日に起こった「守山崩れ(森山崩れとも書く)」について。
ちなみに、織田信長は1534年生まれなので、まだ赤子の頃の話になります。
太助「拙者はやはり守山崩れ、皆の者は知らんと思うけれども、戦国の一大事件について取り上げとうござりまする」
織田信長「儂もまだ1才じゃ」
この事件は、徳川家康の祖父である松平清康に関わる話です。
松平姓から徳川姓を名乗るようになったのは、家康の時代。1566年12月、朝廷からの叙任と同時に改姓し、翌1567年1月に勅許が出て使うようになっています。
その祖父・松平清康が暗殺されたのが「守山崩れ」です。
ちなみに、織田信長は1534年生まれなので、まだ赤子の頃の話になります。
太助「拙者はやはり守山崩れ、皆の者は知らんと思うけれども、戦国の一大事件について取り上げとうござりまする」
織田信長「儂もまだ1才じゃ」
この事件は、徳川家康の祖父である松平清康に関わる話です。
松平姓から徳川姓を名乗るようになったのは、家康の時代。1566年12月、朝廷からの叙任と同時に改姓し、翌1567年1月に勅許が出て使うようになっています。
その祖父・松平清康が暗殺されたのが「守山崩れ」です。
松平家中興の祖だった祖父
徳川家康には、幼少期から織田家や今川家の人質になるなど恵まれず、小さな勢力から天下人になった印象があります。
前田利家「実は、祖父の清康殿がものすごく力のある大名でございまして、松平家中興の祖として知られる人物でござりまする」
もともと岡崎城を本拠とする松平家の分家だった家康の家系。
岡崎城を奪った、または養子に入った等諸説言われますが、勢力を拡大していきました。そして京の都へ向かおうとした早朝に事件が勃発。
尾張国春日井郡森山(現・愛知県名古屋市守山区)の陣中で、清康は家臣の阿部正豊に暗殺されてしまいます。
この事件の後、織田信秀(信長の父)に攻め込まれるなど、松平家の力が弱まったことが、家康の不遇な幼少期の背景となるのです。
前田利家「実は、祖父の清康殿がものすごく力のある大名でございまして、松平家中興の祖として知られる人物でござりまする」
もともと岡崎城を本拠とする松平家の分家だった家康の家系。
岡崎城を奪った、または養子に入った等諸説言われますが、勢力を拡大していきました。そして京の都へ向かおうとした早朝に事件が勃発。
尾張国春日井郡森山(現・愛知県名古屋市守山区)の陣中で、清康は家臣の阿部正豊に暗殺されてしまいます。
この事件の後、織田信秀(信長の父)に攻め込まれるなど、松平家の力が弱まったことが、家康の不遇な幼少期の背景となるのです。
事件の謎は深まるばかり
いわゆる「下剋上」は他にも多くの事例があります。
信長「我が父上(信秀)と同じということじゃな。しかし儂がまだ赤子でオギャーと泣いている間になぜ殺害されたのじゃ?」
利家「やはり尾張国に織田家があって、そこが邪魔で京へのぼれないということで松平家は、織田家とも幾多の戦をしている中でのことでござった。信長様も父上(信秀)から聞いてござらんか」
織田信秀については、息子である信長も「策略謀略の天才じゃったから、恐らく何か知っていたかもしれん」というほどの武将でした。
信長「この阿部正豊の父・阿部定吉が(家康の祖父である)松平清康を裏切るんじゃないかという噂が陣中に巡ったんじゃったな。織田家に通じて寝返ったと。
で、松平家の家臣たちが疑心暗鬼になっているところだったが、当人たちは『そんなことはない』と一筆書いたりしておった」
事件の真相は、未だにいくつかの謎が残っているのも事実です。
例えば、息子の阿部正豊が主君・松平清康を斬ってその後すぐに殺されたにもかかわらず、父の阿部定吉はその後も松平家に仕えています。
当時の理では、一族しかも直系の者が起こした不始末なら連座で何らかの処分はあるはずですが、何もありませんでした。
また、この阿部定吉はまだ幼少だった家康(当時はまだ幼名の竹千代)を松平家の当主に擁立するなど、よくわからない動きをしています。
どちらにしても、祖父が暗殺された「守山崩れ」は家康にとって幼少期に大きな影響があったことは間違いなさそうです。
(葉月智世)
信長「我が父上(信秀)と同じということじゃな。しかし儂がまだ赤子でオギャーと泣いている間になぜ殺害されたのじゃ?」
利家「やはり尾張国に織田家があって、そこが邪魔で京へのぼれないということで松平家は、織田家とも幾多の戦をしている中でのことでござった。信長様も父上(信秀)から聞いてござらんか」
織田信秀については、息子である信長も「策略謀略の天才じゃったから、恐らく何か知っていたかもしれん」というほどの武将でした。
信長「この阿部正豊の父・阿部定吉が(家康の祖父である)松平清康を裏切るんじゃないかという噂が陣中に巡ったんじゃったな。織田家に通じて寝返ったと。
で、松平家の家臣たちが疑心暗鬼になっているところだったが、当人たちは『そんなことはない』と一筆書いたりしておった」
事件の真相は、未だにいくつかの謎が残っているのも事実です。
例えば、息子の阿部正豊が主君・松平清康を斬ってその後すぐに殺されたにもかかわらず、父の阿部定吉はその後も松平家に仕えています。
当時の理では、一族しかも直系の者が起こした不始末なら連座で何らかの処分はあるはずですが、何もありませんでした。
また、この阿部定吉はまだ幼少だった家康(当時はまだ幼名の竹千代)を松平家の当主に擁立するなど、よくわからない動きをしています。
どちらにしても、祖父が暗殺された「守山崩れ」は家康にとって幼少期に大きな影響があったことは間違いなさそうです。
(葉月智世)
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