1985年3月14日、東北新幹線が大宮駅から上野駅に延伸され、上野駅は新幹線駅として開業しました。今年の3月14日で、ちょうど40周年です。
3月13日放送の『CBCラジオ #プラス!』では、CBC論説室の石塚元章特別解説委員が上野駅の知られざる歴史について解説しました。
「北の玄関口」としての顔
上野駅は単なる駅ではなく、東京の「北の玄関口」として特別な意味を持つ駅。東北や信越、上信越方面からの鉄道が東京に到着する行き止まりの駅でした。
石塚は、石川啄木の『一握の砂』の「ふるさとの 訛(なまり)なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく」という短歌を紹介し、「そこの駅に行けば、ふるさとの人が降り立てくるから。なんとなく東北の言葉が聞こえたりする、そういう駅です」と説明しました。
また、高度経済成長期には「集団就職」の玄関口としても機能していました。これは、1960年代、地方の中学校や高校を卒業した若者たちを、学校や自治体がまとめて東京の企業に送り込んでいた制度です。
彼らは「金の卵」と呼ばれ、高度経済成長を支える貴重な働き手となりました。その集団就職列車は主に上野駅に到着し、専用のホームさえ設けられていたといいます。
今はない18番ホームは、集団就職で来る臨時列車のためのホームだったそうです。
石塚は、石川啄木の『一握の砂』の「ふるさとの 訛(なまり)なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく」という短歌を紹介し、「そこの駅に行けば、ふるさとの人が降り立てくるから。なんとなく東北の言葉が聞こえたりする、そういう駅です」と説明しました。
また、高度経済成長期には「集団就職」の玄関口としても機能していました。これは、1960年代、地方の中学校や高校を卒業した若者たちを、学校や自治体がまとめて東京の企業に送り込んでいた制度です。
彼らは「金の卵」と呼ばれ、高度経済成長を支える貴重な働き手となりました。その集団就職列車は主に上野駅に到着し、専用のホームさえ設けられていたといいます。
今はない18番ホームは、集団就職で来る臨時列車のためのホームだったそうです。
予定になかった駅
上野駅の歴史には「存在しなかった可能性」という意外な秘話があります。石塚によると、その理由のひとつは駅の位置に関わるものでした。
上野駅は1883年(明治16年)に開業しました。上野駅を作ったのは日本鉄道株式会社という民間の鉄道会社でした。当時は明治政府ができたばかり。西南戦争もあり、国家の財政が苦しく「鉄道まで手が回らない」状況だったのです。
そして当初の計画では、上野を通る予定はありませんでした。
「東京を時計の文字盤に見立てると、北から入ってくる鉄道は12時の方向から入ってくる。上野駅は2時か3時の方向にあたります。当初の計画では、その逆の9時や8時の方向、つまり新宿や品川方面へ向かうルートだった」と石塚は説明します。
しかし、西側の武蔵野台地は起伏が多く工事が難しいため、まずは平坦な土地に駅を作る方針に変更。さらに、上野は幕末の上野戦争で戦場となった後、荒れ地になっていました。
そこに徳川家の菩提寺である寛永寺の広大な土地があり、東京府(現在の東京都)がその土地を所有していたことから、「ここは土地もあるし場所もいい」ということで上野駅が誕生したのです。
上野駅は1883年(明治16年)に開業しました。上野駅を作ったのは日本鉄道株式会社という民間の鉄道会社でした。当時は明治政府ができたばかり。西南戦争もあり、国家の財政が苦しく「鉄道まで手が回らない」状況だったのです。
そして当初の計画では、上野を通る予定はありませんでした。
「東京を時計の文字盤に見立てると、北から入ってくる鉄道は12時の方向から入ってくる。上野駅は2時か3時の方向にあたります。当初の計画では、その逆の9時や8時の方向、つまり新宿や品川方面へ向かうルートだった」と石塚は説明します。
しかし、西側の武蔵野台地は起伏が多く工事が難しいため、まずは平坦な土地に駅を作る方針に変更。さらに、上野は幕末の上野戦争で戦場となった後、荒れ地になっていました。
そこに徳川家の菩提寺である寛永寺の広大な土地があり、東京府(現在の東京都)がその土地を所有していたことから、「ここは土地もあるし場所もいい」ということで上野駅が誕生したのです。
住民運動で実現した駅
上野駅が「存在しなかった可能性」その2は、東北新幹線に関するものです。
東北新幹線は1982年(昭和57年)に大宮~盛岡間が暫定開業しましたが、その後大宮から東京方面へ延伸する際にも、どこを通るかという議論がありました。
「最初の計画では、日暮里あたりから南下し、上野公園の地下を通り、東京駅に直接行くルートだった」と石塚。大宮~東京間はわずかな距離であり、その間に上野という停車駅を設けると新幹線のスピードが上げられないという懸念があったようです。
しかし、上野周辺の住民から「なぜここに新幹線駅を作らないのか」という強い要望が出されました。「どうしても上野発が嫌なら東京まで行ってもいいが、とにかく上野に駅を作ってくれ」という台東区民の運動があったといいます。
加えて、当時の美濃部亮吉都知事(革新都政)が、上野公園の地下通過は地下水への影響を懸念して反対。上野駅ルートなら認めるという姿勢を示したことで、結果的に上野駅の地下に新幹線駅が設けられることになりました。
この上野駅延伸開業が実現したのが1985年3月14日。その後1991年には上野から東京まで乗り入れるようになり、「終着駅としての上野」というイメージは徐々に変わっていったのです。
東北新幹線は1982年(昭和57年)に大宮~盛岡間が暫定開業しましたが、その後大宮から東京方面へ延伸する際にも、どこを通るかという議論がありました。
「最初の計画では、日暮里あたりから南下し、上野公園の地下を通り、東京駅に直接行くルートだった」と石塚。大宮~東京間はわずかな距離であり、その間に上野という停車駅を設けると新幹線のスピードが上げられないという懸念があったようです。
しかし、上野周辺の住民から「なぜここに新幹線駅を作らないのか」という強い要望が出されました。「どうしても上野発が嫌なら東京まで行ってもいいが、とにかく上野に駅を作ってくれ」という台東区民の運動があったといいます。
加えて、当時の美濃部亮吉都知事(革新都政)が、上野公園の地下通過は地下水への影響を懸念して反対。上野駅ルートなら認めるという姿勢を示したことで、結果的に上野駅の地下に新幹線駅が設けられることになりました。
この上野駅延伸開業が実現したのが1985年3月14日。その後1991年には上野から東京まで乗り入れるようになり、「終着駅としての上野」というイメージは徐々に変わっていったのです。
日本初の発車ベルも上野駅から
上野駅の歴史を語る上で興味深いのは、日本で初めて発車ベルを導入したのも上野駅だったという事実です。
それまでは笛や鐘などで発車を知らせていましたが、上野駅は遠方から来る人々で非常に混雑し、そうした音では聞こえないことがあったため、より明確に認識できる発車ベルが導入されたとのことです。
40年前に実現した東北新幹線上野駅延伸開業は、この駅の機能と役割を大きく広げることになりました。
(minto)
それまでは笛や鐘などで発車を知らせていましたが、上野駅は遠方から来る人々で非常に混雑し、そうした音では聞こえないことがあったため、より明確に認識できる発車ベルが導入されたとのことです。
40年前に実現した東北新幹線上野駅延伸開業は、この駅の機能と役割を大きく広げることになりました。
(minto)
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