2018年1月6日(土)

追悼・燃える男 星野仙一、最後のラジオ生出演。あの「落合トレード」の真相を語る

ドラゴンズスペシャル / スポーツ

1月4日、元中日ドラゴンズ投手・監督の星野仙一さんが亡くなられていたことがわかりました。

ここに星野さんが昨年12月12日に『ドラ魂KING』へ生出演された際の記事を再掲し、星野さんの偉業やメッセージを振り返るとともに、謹んで星野さんのご冥福をお祈りいたします。
(編集部)

2017年12月12日 最後の生出演

楽天野球団副会長の星野仙一さんが12月12日の『ドラ魂KING』に出演しました。

言わずと知れた「燃える男」、元中日ドラゴンズのエースで監督。さらに阪神、楽天の監督も務め、それぞれの球団をリーグ優勝に導き、今年野球殿堂入りを果たしました。
滅多にラジオ出演はしない星野さんですが、長年交友を続けた久野誠アナウンサーが定年退職間近ということで、特別に快諾してくれたそうです。

星野さんのことを「星野監督」と呼ぶことに決めていた久野誠、まずは入団時の噂から伺います。

巨人が指名するはずだった

1968(昭和43)年のドラフトで、巨人から指名すると言われていたのに話が違った、と巷間では言われています。あれは、本当のことなんでしょうか?

「そうです。ジャイアンツは田淵を一位指名すると言ってました。田淵がよそに獲られた場合、星野、お前を指名する、と言う話が最初ですね」

ご存知のように、田淵さんを一位指名したのは阪神。そして巨人の一位指名は、星野さんではなく島野修さんでした。

「巨人戦にめっぽう強い」星野伝説は、これがきっかけかと思いきや、実はそうではなかったのです。

巨人への対抗意識が芽生える

「もともと僕は巨人があんまり好きじゃなかった。で、名古屋へ来たら中日新聞と読売新聞の新聞戦争じゃないですか。(中日)本社の方は巨人とかジャイアンツと言わないんですよ。”読売”に勝てと」

この頃は1973(昭和48)年にV9を達成する勢いのあった巨人。本当に強い球団でした。

「男は読売に勝ってナンボのもんだ、という意識がもの凄く強くなった。もう一つ、東京モンに負けてたまるかという、ある意味、小さな田舎モンの劣等感を、もの凄いエネルギーにしましたね」

自ら「巨人戦は俺だろう」と志願もしたそうです。

「巨人戦で投げさせなかったら俺は投げねえぞ、というぐらい。だから必ずローテーション(3試合)の中に一回は入ってました」

その情熱が昭和49年の20年ぶり、巨人の10連覇を阻んでの優勝につながったのです。

投手生活最高の投球

実は、その優勝決定前の試合が大一番でした。

10月11日、神宮球場で行われたヤクルト×中日26回戦。
この試合を落としたら、巨人との直接対決。しかも後楽園球場で、という非常に不利になるというところで、星野投手が立ちはだかるわけです。

2対3の劣勢から、9回表に高木守道さんのタイムリーで3対3の同点になります。
ここで星野投手がマウンドに上がります。当時は3時間制で3時間を超えたら延長に入らない規定でした。この時点で3時間を回っていたため、9回の裏1イニングだけのために星野投手が登板したのです。

「14年間のピッチャー生活の中で、あのヤクルト戦の9回、あれが最高のピッチングだと思う。もう震えた震えた!喉はカラカラ。足を見たらユニフォームが震えてるわけ。
それで投球練習するじゃないですか。もの凄く良いボールが行くの。その時に『ああ、これがプレッシャーなんだ。その割には、俺、良いボール行くな』と思って、その時に俺はプレッシャーに強いんだ、という意識を持ったね。本当に良いボールが行ったね」

結果は内野ゴロ一つと、三振二つで見事に抑えました。
そして翌日の大洋(現DeNA)戦ダブルヘッダーの2試合目で優勝が決まりました。

中日からの召集令状

星野さんは1983年(昭和58年)に引退します。
NHKでキャスターをするなど評論家生活を経て、1986(昭和61)年のシーズンオフに、39歳の若さで中日ドラゴンズの監督になりました。

「僕はまだ、監督として戻りたくなかったんですよ。放送が楽しくてしょうがなかったの。当時のオーナーの加藤巳一郎さんが戻って来い、と言うんです。もう召集令状ですよ。このオーナーに言われたらしょうがないなあと覚悟しましたね」

監督から選手へ「覚悟しとけ」

「評論家の時に、中日が後楽園で巨人に3連敗したんです。戻って来る選手たちの姿をずっと見てて、読売に3連敗して何の悔しさも感じられないんですよ。こいつら、いつからこんな腑抜けになったんだ、という気持ちは持ってましたね」

何やってんだてめえら、という思いがあったという星野監督。
監督就任会見で中日の選手に向けて放った一言は「覚悟しとけ!」でした。

落合電撃トレードの真相

監督に就任するや否や、大胆な改革を進めました。最も球界を驚かせたのは、ロッテから落合博満選手を1対4のトレードで引っ張って来たことでしょう。

「あれは、本当はゆっくり話をしたいんだけれども、どこも落合を獲るところがなかったんですよ。で、西武GMの根本さんと相談したんですよ。『根本さん、獲らないの?』って言ったら『うちは獲らないよ』」

その間に、巨人の正力オーナーとロッテの重光オーナーとの話し合いが破談になったそうです。
中日にも交渉の可能性はありました。

「巨人に獲られたらエライことになってしまう。これはウチが獲るしかないということで、加藤オーナーと中山社長と相談したんです」

そして年末ギリギリで落合選手の入団が決定。
そして監督就任2年目の1988(昭和63)年、見事リーグ優勝を果たしました。

ノーヒットノーランで近藤デビュー

星野さんは若手の起用にも長けた監督でした。
特に印象深いのは、1987年(昭和62年)8月9日、巨人戦でノーヒットノーランデビューを果たした近藤真一(現・真市)投手。

「打たれろ打たれろ、お前、一本は打たれろ。ノーヒットノーランなんかするんじゃねえと言ってたら、最後まで行っちゃいましたよね。
あれはね、前夜の試合、勝って風呂場で決めたんですよ。ピッチングコーチの池田さんが、『監督、明日のピッチャーいないんです』と来た。『二軍に近藤おるやない』と言うと『いや高校生ですよ』と。しかも王さん(巨人)と優勝争いをしてましたからね。『いい、いい。やられても構えへんから、近藤で行け』っていう感じだったんですよね」

星野監督は、二軍でいい選手はすぐに一軍に上げ、上げたらすぐ使う、というポリシーを持っていました。

「上げた以上はベンチに座らせてたんじゃダメ。冷蔵庫に入れてたんじゃ、いくら冷蔵庫でも新鮮さがなくなるということで、すぐ使うことにしてたんですよ」

プロ野球発展のために

番組の最後に、現在のドラゴンズファンに対してコメントを伺いました。

「森監督は若いやつも使ってるし、これからじゃないの?ただ、もっともっと、名古屋気質と言うか、東海人の文化と言うか、歴史と言うか、そういうものを大事にしてほしい。もっとファンを惹きつけるには、サラリーマンの野球をやってたんではダメ。個性がないと」

プロ野球の発展のため次の展開を考えている、という星野監督。

「やっぱりね、底辺拡大。こどもたちにどうやって野球をやらせるか、その環境作りをどうやるか。
プロ野球なんていい加減なもんなんです。ドラフトでパッパッとお金で釣るだけだからね。それまで選手を育てるのに、アマチュアの監督がどれだけ苦労してるか、そこを考えないと。もう考えてますけどね、僕は」

星野さんのその考え、いつかぜひとも聞きたいところです。

「プロ野球発展のためによろしくお願いします。今日は本当に嬉しかった」と、感激ひとしおの久野誠アナでした。
(尾関)

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