2017年12月2日(土)

ずっと忘れない。大豊泰昭選手の愛される人柄を。

CBCラジオインフォメーション / スポーツ

最強の中日ドラゴンズ応援番組を目指す『ドラ魂KING』。木曜日はメインパーソナリティー・久野誠アナウンサーによる「名選手こぼれ話」をお送りしています。

11/30は、大豊泰昭(たいほう やすあき)選手を取り上げました。
大豊選手は1963年生まれ、台湾出身で、本名は陳 大豊さん。1989~2002年まで中日ドラゴンズと阪神タイガースを渡り歩き、ドラゴンズでは本塁打王と打点王を獲得。
しかし残念ながら2015年、51歳という若さで永眠されました。

プロ入りまでの回り道

詳しい経歴を紹介しましょう。

日本のプロ野球(NPB)入りを目指すため、20歳になった1984年に名古屋商科大学に入学。
なぜその年齢かというと、兵役免除の手続きをし、パスポートを得るには20歳にならないといけなかったからです。その間、大豊さんは母校の華興高校で2年間コーチを務め、ようやく出国となったのでした。

4年間の大学生活の後、今度はドラゴンズの球団職員として1年間過ごします。
なぜかと言うとNPBでは、日本の大学に4年以上在籍し、なおかつ日本に5年以上居住すれば、外国人選手ではなく日本人選手と同等に扱われるからです。外国人は一軍に2人しか登録されず非常に不利なので、それを避けるための策なのでした。

ちなみに現在は、日本の大学に4年間在籍さえすれば「5年間以上の居住」という条件はなくなり、外国人枠から外れます。
外国人の一軍登録枠も当時より拡大されています。

それから「1年間球団職員として過ごす」というのは昔の裏ワザでした。有力選手を身内に置くことで、他球団が手を出しにくくなるのです。ルール上は他球団がドラフトで指名しても問題はないのですが。いわゆる“囲い込み”です。もちろん今では使えません。

この作戦により1988年、ドラゴンズはドラフト1位で今中慎二投手、2位で大豊選手を獲得したのです。

プロ入り後の足跡

背番号は55。大豊選手の憧れである台湾の英雄・王貞治氏がかつて打ち立てた、NPBシーズン最多本塁打記録の55本にあやかりました。
ちなみに2013年、ヤクルトスワローズのバレンティン選手が60本を打ち、記録は塗り替えられています。

プロ1年目に14本、2年目には20本の本塁打を放ちます。そして4年目・92年の秋季キャンプで、臨時コーチの張本勲氏の指導で一本足打法を始めます。翌93年に25本塁打。

そして大きな転機はここから。落合博満選手がFAで読売ジャイアンツに移籍するのです。
それまでは慣れない外野を守っていた大豊選手は、一塁手専任となり、打撃に集中できるように。94年は38本塁打、107打点で見事二冠王になったのでした。

打率も3割1分と、三冠王も狙えそうな勢いでしたが、実は首位打者は3割2分4厘を打ったチームメイトのパウエル選手でした。

ちなみにパウエル選手はこの年から外国人初の3年連続首位打者という偉業を達成していますが、同時期にオリックス・ブルーウェーブのイチロー選手が7年連続首位打者という離れ業をやっているため、ちょっと影が薄くなってしまいました。

その後97年にナゴヤドームが開場となるも、広い球場で調子を崩し、12本塁打と激減。当時の星野仙一監督は機動力野球を目指すチーム作りに方針転換。

そのシーズンオフに、ドラゴンズから大豊選手・矢野輝弘選手、阪神タイガースから関川浩一選手・久慈照嘉選手という複数トレードが行なわれたのです。

しかしタイガースでは当時の野村克也監督と反りが合わず、在籍は3年間で終わり、再びドラゴンズに戻りますが2年経った2002年現役を引退。

その後、ドラゴンズのアジア地区担当スカウトに就任し、2004年にチェン・ウェイン投手(現マーリンズ)を入団に導きました。

プライベートでは、名古屋に中華料理店「大豊飯店」を開業。閉店後も岐阜県内に「大豊ちゃん」という名で移籍オープンしたりして接客に勤しんでいました。

ですが、2015年1月18日、急性骨髄性白血病のためその短い生涯を閉じたのです。

もてなすつもりがもてなされ

そんな大豊さんのキャラクターを表す言葉として「努力」「誠実」「愚直」「気遣い」「不器用」が当てはまると、久野は言います。

43年間のアナウンサー生活の中で見てきた中でも、大豊さんが最もマジメで長時間練習に打ち込んだ選手だと、しみじみ語ります。

「不器用」というのは悪い意味ではなく、要領よく世渡りをするような人ではない、ということです。
まさしく“気は優しくて力持ち”と言える人物なのでした。

大豊さんの人柄が偲ばれるエピソードを2つ、久野が紹介しました。

まずは「もてなすつもりがもてなされ」の巻です。
CBCテレビの老舗ドラゴンズ応援番組『サンデードラゴンズ(サンドラ)』の司会を久野がやっていた頃の話。

サンドラ放送終了後、久野が新築祝いで、スタッフや後輩のアナウンサーなどを自宅に招待しました。
その時大豊さんも来てくれたのですが、なんと、せっせと料理を運んだり、皿を片づけたりしてくれたのだそう。

「いやいや大豊さん、あなたはゲストなんですからどうぞ座っててください」と言っても、「いやいやいや」と言って甲斐甲斐しく奉仕してくれたんだとか。

信じ抜くこと、それが大事

2つめは、「信じる事が真実」の巻です。

『サンドラ』では昔、シーズンオフに出演した選手に、「来季はこれだけの数字を残す」という公約を言ってもらい、達成すれば番組からご褒美、しなければペナルティーという企画をやっていました。
ペナルティーの例としては、選手に中京競馬場のダートコースを走ってもらうなど。

1996年、大豊選手は見事公約をクリアし、希望していた「中国旅行」をゲットしたのです。
万里の長城、故宮博物院、兵馬俑など歴史の産物を観に行くもの。

ただ、一緒に行く予定だった久野が行けなくなったということで、これから紹介するのは同行したプロデューサー兼ディレクターから聞いた話になります。

大豊さんは「三国志」の関羽が大好きで、関羽が祭られている関帝廟(かんていびょう)を訪ねました。
その敷地内には売店があり、関羽の像や置物など“関羽グッズ”がたくさん売られていました。

大豊さんは「ここからここまで全部」という大人買いをしたそうです。今なら爆買いですね。いや、中国で買ってるから“逆爆買い”でしょうか。そんなことはさておき。

どうも店主が「年代ものの良い物だから」と勧めたらしく、それを大豊さんが信じて買ったようなのです。

その後、出国しようと空港に着いたら、税関に待ったをかけられました。関羽グッズを調べられたのです。値打ちのある物だと課税されたり、いろいろ面倒なことになります。

ところが、「日本に帰っていいですよ、はいどうぞ」とあっさり通されました。
後で調べてみたら、どうやら全部レプリカだったのでした。

「人を疑うことができない、そういう一面もあったという、大豊さんらしいエピソードだなと思って紹介しました」という久野。
リスナーからは「店に食べに行ったら気さくに写真やサインに応じてくれて嬉しかった」というおたよりも。

久野にとっても、ドラゴンズファンにとっても忘れられない選手のひとり、大豊さんなのでした。
(岡戸孝宏)

画像撮影:宮部和裕アナウンサー

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