10月28日『若狭敬一のスポ音』(CBCラジオ)に、名古屋大学出身の元大相撲の力士、田中周一さんが出演しました。
名古屋大学在学中から相撲部へ入部し、大相撲では「舛名大」の四股名で三段目まで進んだもののケガで引退、現在は新聞社に勤務という異色の経歴を持つ田中さん。
聞き手は若狭敬一アナウンサーです。
元力士の記者はやっぱりデカい。田中周一さんのびっくり出産エピソード
四股名に「名大」
田中さんは1984年(昭和59年)3月16日生まれの39歳。愛知県岡崎市の出身です。
愛知県立豊田西高校から名古屋大学工学部に進学し、大学1年の時、学園祭で相撲大会に参加したことをきっかけに、相撲の魅力を感じて相撲部へ入部します。
2005年、2006年には全国国公立大学対抗相撲大会団体戦で全国制覇しました。
千賀ノ浦親方から熱心に勧誘され、大学4年生の2006年9月に入門を決意。国立大学出身力士としては史上3人目となります。
「舛名大」という四股名は、師匠の現役時代の四股名、舛田山と名古屋大学を合わせた名前です。
11月に初土俵を踏み、2009年の五月場所では三段目に昇進。
その後、怪我が重なり、2011年一月場所限りで現役を引退しました。生涯成績は21場所、57勝56敗27休。
2009年4月から株式会社中日新聞社へ入社。現在は中日スポーツ総局、整理部に所属し、中日スポーツの一面のレイアウトなどを担当しています。
紙面の左下や右下に、レイアウト担当者の名前があるので、そこで田中さんが担当したかどうか確認できるそうです。
愛知県立豊田西高校から名古屋大学工学部に進学し、大学1年の時、学園祭で相撲大会に参加したことをきっかけに、相撲の魅力を感じて相撲部へ入部します。
2005年、2006年には全国国公立大学対抗相撲大会団体戦で全国制覇しました。
千賀ノ浦親方から熱心に勧誘され、大学4年生の2006年9月に入門を決意。国立大学出身力士としては史上3人目となります。
「舛名大」という四股名は、師匠の現役時代の四股名、舛田山と名古屋大学を合わせた名前です。
11月に初土俵を踏み、2009年の五月場所では三段目に昇進。
その後、怪我が重なり、2011年一月場所限りで現役を引退しました。生涯成績は21場所、57勝56敗27休。
2009年4月から株式会社中日新聞社へ入社。現在は中日スポーツ総局、整理部に所属し、中日スポーツの一面のレイアウトなどを担当しています。
紙面の左下や右下に、レイアウト担当者の名前があるので、そこで田中さんが担当したかどうか確認できるそうです。
記者も熱くなるドラフト
田中さんが名古屋大学から角界入りした当時、テレビや新聞などで取材を受けたそうですが、ラジオ出演は初めてとのこと。
先日ドラフト会議が開かれましたが、スポーツ新聞記者のドラフト当日の様子はどうだったのでしょう?
田中さん「当日会社にいたんですけど、1位指名の度会選手外して、みんな意気消沈してたんですけども、草加投手が取れた時は立浪監督がガッツポーズしてて、僕らも一緒にガッツポーズするような感じでした」
一面のレイアウトを担当する時は「ドラゴンズ、勝ってくれ!」という気持ちだそうです。
先日ドラフト会議が開かれましたが、スポーツ新聞記者のドラフト当日の様子はどうだったのでしょう?
田中さん「当日会社にいたんですけど、1位指名の度会選手外して、みんな意気消沈してたんですけども、草加投手が取れた時は立浪監督がガッツポーズしてて、僕らも一緒にガッツポーズするような感じでした」
一面のレイアウトを担当する時は「ドラゴンズ、勝ってくれ!」という気持ちだそうです。
メモリアルの紙面は?
今シーズン、田中さんが担当した一面で記憶に残っているのは、8月に大島洋平選手が通算2000安打を達成した時だそうです。
レイアウトに選んだ写真は2000安打のボードを掲げた大島選手。
田中さん「2000っていうのをすごく表現しようと思って、その写真を大きく貼り、余計な見出しは付けずに、大島2000っていう感じでやらせていただきました」
一面担当者はシフト制で、運よくこの日に当たったそうです。ちなみにカメラマンから送られてくる写真は100~200枚。その中から、これだという一枚を選ぶそうです。
レイアウトに選んだ写真は2000安打のボードを掲げた大島選手。
田中さん「2000っていうのをすごく表現しようと思って、その写真を大きく貼り、余計な見出しは付けずに、大島2000っていう感じでやらせていただきました」
一面担当者はシフト制で、運よくこの日に当たったそうです。ちなみにカメラマンから送られてくる写真は100~200枚。その中から、これだという一枚を選ぶそうです。
場所は産道、出生0秒
力士から新聞記者という異色の経歴を持つ田中さん。
実はこどもの頃の夢はプロ野球選手だったそうです。
田中さん「2~3歳の頃は、当時の立浪和義選手の3番のユニフォーム型のパジャマがあって、それを毎日好んで着て寝てるぐらいドラゴンズファンでした」
日本相撲協会のプロフィールによると、舛名大の力士時代は身長189.0センチ。体重133.0キロ。生まれた時の体重は6080グラム。
最近の赤ちゃんは3000グラムを超えると大きいと言われるそうですが、さらに倍となる大きさで、田中さん本人もネタにしているそうです。さらに驚くべきことが。
田中さん「まさかの自然分娩だったので、なかなか出てこなくて、自ら左腕を折って出てきたみたいです」
田中さんの骨折歴は、場所が産道。出生0秒。凄まじいエピソードです。
実はこどもの頃の夢はプロ野球選手だったそうです。
田中さん「2~3歳の頃は、当時の立浪和義選手の3番のユニフォーム型のパジャマがあって、それを毎日好んで着て寝てるぐらいドラゴンズファンでした」
日本相撲協会のプロフィールによると、舛名大の力士時代は身長189.0センチ。体重133.0キロ。生まれた時の体重は6080グラム。
最近の赤ちゃんは3000グラムを超えると大きいと言われるそうですが、さらに倍となる大きさで、田中さん本人もネタにしているそうです。さらに驚くべきことが。
田中さん「まさかの自然分娩だったので、なかなか出てこなくて、自ら左腕を折って出てきたみたいです」
田中さんの骨折歴は、場所が産道。出生0秒。凄まじいエピソードです。
中学時代に戦力外通告
立浪和義選手の背番号3のパジャマを着て育ったという田中さん、小学校でソフトボール、中学校で野球をやりはじめたそうです。右投げ右打ち。
田中さん「身体だけはデカかったんですけども、もの凄く不器用で背番号を貰うどころかベンチすら温められず。
最後には中学校の先生に『このままいてもお前は試合には出れないから柔道部に行け』って言われました」
中学校の軟式野球部の顧問の先生から戦力外通告を受けた田中さんですが、そのまま意地で野球部に残ったそうです。
田中さん「身体だけはデカかったんですけども、もの凄く不器用で背番号を貰うどころかベンチすら温められず。
最後には中学校の先生に『このままいてもお前は試合には出れないから柔道部に行け』って言われました」
中学校の軟式野球部の顧問の先生から戦力外通告を受けた田中さんですが、そのまま意地で野球部に残ったそうです。
毎日、牛乳7~8本
中学3年生の時点で身長183~184センチ、体重約80キロ。
給食では毎日ご飯を3杯。牛乳を7~8本飲んでいたそうです。
田中さん「クラスの女の子がみんな飲まないんです。僕が飲むことはわかってるんで、みんな配った時点で僕の机に全部置いていくんです」
中学校では必ずいる牛乳を秒で飲む男子と量を飲む男子。田中さんは後者だったそうです。そんな田中さんの好きな食べ物は?
田中さん「お寿司が一番好きです」
田中周一さんの数奇な運命。このあとは角界入りの話へと盛り上がりました。
(尾関)
給食では毎日ご飯を3杯。牛乳を7~8本飲んでいたそうです。
田中さん「クラスの女の子がみんな飲まないんです。僕が飲むことはわかってるんで、みんな配った時点で僕の机に全部置いていくんです」
中学校では必ずいる牛乳を秒で飲む男子と量を飲む男子。田中さんは後者だったそうです。そんな田中さんの好きな食べ物は?
田中さん「お寿司が一番好きです」
田中周一さんの数奇な運命。このあとは角界入りの話へと盛り上がりました。
(尾関)
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