若狭敬一のスポ音

「二人で、また野球の話を」山田久志、盟友・星野仙一を語る

1月4日に膵臓がんで亡くなられた星野仙一さん。
そのニュースが報じられた6日の『若狭敬一のスポ音』では、野球解説者の山田久志さんに急遽電話を繋ぎ、星野さんとのエピソードを伺いました。

星野さんと山田さんとは同じ年にプロ野球入りした同期でした。
さらに現役引退後には、ともに中日ドラゴンズで監督とコーチとして、チームをリーグ優勝に導いた戦友でもありました。

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間違いじゃないの?


「今日の朝方、5時ちょっと過ぎだったでしょうか。知り合いから私の携帯の方に一報が入りました」と山田久志さん。
訃報がニュースで報じられる前です。

「最初は、え?何かの間違いじゃないの?っていう感じで聞いてましたね。
11月と12月には殿堂入りを祝う会もやってたし、元気そうな姿も拝見してたし、一時は確かに体調悪いとは聞いてたけども、戻ってきてくれたんだなーっていう感じで、星野さんのことを聞いてましたからね」

最後に会ったのは?


「仙さんは、芦屋に住んでましたから、芦屋の付近でちょくちょく顔は見るんですよ。ですから声を掛けたりはしてました。最後がいつかは、ちょっと思い出せませんけども」

仕事やプライベートでも、よく会っていたそうです。

「活動範囲が関西のだいたい同じところで活動してるもんですから、プライベートの面で食事やら、いろいろと使うところが似てるもんですから、偶然見かけるとかはありましたよね」

山田さんも知らなかった


「『ちょっと、やっかいな病気抱えてるんや』と、前から糖尿病のことは聞いてました。でも膵臓がんっていうのは全くわかりませんでしたね」

星野さんが癌の闘病中であることを知る人は、あまりいなかったようです。

「野球界に対して、あれほどズバズバと厳しいことを言う、そしてまた、あれほど愛情を持ってる人もいなかったからね。そういう意味では、楽天の副会長というよりも球界のご意見番として、やってもらわなくちゃいけない人でしたよ」

山田さんにとっての「星野仙一」


「星野さんっていえば、戦う男だとか熱い男だとか言いますけども、本質は気遣いの男でしたよ。細かいとこまで気を遣う。そして気が回る。そういうタイプでした」

星野さんというと、中日、阪神、楽天の3球団を優勝に導いた華々しい監督像ですが、山田さんの見た星野さんは少し違うようです。

「裏方に一番気を遣ってましたよ。もちろん、その中には家族も含まれてるんですけどね。分け隔てなく気を遣ってたのを、私は見ててよく感じましたね」

初めての出会い


昭和43年、山田さんと星野さんはお互いにドラフト1位で阪急ブレーブスと中日ドラゴンズへ入団しました。山田さんが、初めて言葉を交わしたのは、そのドラフトの次の年のオープン戦だったそうです。

「まあ、気の強い男でしたね。お山の大将的な態度でしたよ。俺が一番っていう感じでした。結構ハッタリが効くなあと思って見てましたね」

徐々に近づいていく二人ですが、星野さんは中日、山田さんは阪急。どこに接点があったんでしょうか?

「野球界は昔からそうなんですけども、 セ・リーグだろうがパ・リーグだろうがね、選手がどっかの遠征先行ったら、よく同じ店で一緒になるんですよね。
本来なら、みんな一緒になりたくないんですよ。ところがだいたい同じ店になるんですよ。星野さんはお酒は飲まない人でしたけど、それでもよく夜の街にいました。いろんな店で会ってましたね」

長嶋監督より星野監督を選ぶ


二人が急接近するのは、やはり星野監督、山田コーチによる1999年のドラゴンズ時代。

実は当時、山田さんはジャイアンツの長嶋監督からもドラゴンズの星野監督からもラブコールを受けていました。そして山田さんは星野監督を選びます。

「選んだっていうより、半ば強引に引っ張りこまれたって言う方が正しいと思いますよ」と笑う山田さん。

選手時代、そしてオリックスのコーチ時代と、いろんな監督と接してきた山田さんですが、星野さんは特別だったそうです。

「ひとつ形を持ってる人でしたね。今までの監督像を打ち破った人でしょうね」

その星野さんとドラゴンズのユニフォームを着て、同じグラウンドに立った時の心境はどうだったのでしょう?

「誠に新鮮でした。新しい野球ができるような感じ。新しいコーチ業がやれるような感じで、ドラゴンズのユニフォームを着ましたね」

星野さんから全権を委任される


コーチを引き受けると返事をした時、こう言われたそうです。

「『ピッチャーのことに関してはお前に全てを任す』って言ったの。その代わり責任を持てって言うんですよ。それはもう臨むところだっていう想いでしたね」

監督というのは、ピッチャーに対しても、投手交代についても口を出すのが普通ですが、星野さんは全権を委譲しました。
さらに山田さんは、グラウンド上だけでなく、何十人といるピッチャーの私生活まで管理を任されたそうです。

「これは驚きと同時に、やりがいもありますわな」

星野さんとの一番の思い出


「やっぱり99年の優勝でしたね。あの時は、開幕は突っ走ったけど、結構追い上げられてね。それでピッチャーの入れ替えとかいろんなことをやった」

リーグ優勝を決めたのは9月30日。神宮球場でのヤクルト戦でした。

「あの神宮球場がブルー一色になったじゃないですか。あの時にね、プレイボールがかかる前に、星野さんが泣いてましたよ」

「え?え?」と若狭敬一も驚きます。
「星野さん、あの時は泣いてました」と山田さん。

ユニフォームを着ている時は、山田さんは星野さんのことを「星野さん」「監督」と呼んでいましたが、プライベートの場では、お互いに「仙さん」「ヤマ」と呼び合っていたそうです。

「その時ユニフォームを着てて初めて『仙さん』って言ったと思う。『仙さん、泣く場合じゃないだろう』って、仙さんを怒ったんです。
あのブルーになったグラウンドを見た瞬間、やっぱりジーンときたと思うんですよ。これで、バーッと涙出てね。あの時『仙さん、こんなとこで泣いたらアカンのや、笑っていこうや』」

こう言って山田さんは、星野さんの腰を叩いて送り出したそうです。

ハートで戦った男


戦う男という反面、情にもろくて、涙もろかった星野さん。

「涙もろかったねえ、何かあったらすぐ泣いてたもん。選手がいいとこで打ったら泣くし、誰かが勝ったら泣くし。その代わり、厳しいこともやるしね。
皆さんが知ってる星野さんは闘魂だとかね、闘将だとか、戦う男丸出しだとか、よく言いますけども、その裏ではいろんな色を出す人でしたね。気持ちが出てて、ハートで戦った人です」

ドラゴンズと言えば


「名古屋の人は、星野監督がグラウンドに立って、そのパフォーマンスを見るだけで楽しかったと思いますよ。
名古屋の人は、皆さんそうでしょう。だって、ドラゴンズでいろんな成績を残したり、有名になった選手はいっぱいいるんでしょうけど、ドラゴンズと言えば、一番先に出てくるのが星野仙一ですよね」
若狭敬一のスポ音
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2018年01月06日13時12分~抜粋

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