毎週日曜夕方4時半からの『若狭敬一のスポ音』での名物コーナー「山田久志の栄光に近道なし」、このコーナーは伝説のサブマリン投法でプロ通算284勝を挙げられた、野球解説者の山田久志さんに野球の魅力や裏側を語っていただこうというコーナーです。
今年1月2日、ひとりの野球人が世を去りました。1950年代から60年代にかけてニューヨーク・ジャイアンツ(現:サンフランシスコ・ジャイアンツ)、セントルイス・カージナルス、ロサンゼルス・ドジャース、シンシナティ・レッズと大リーグを渡り歩いた名内野手、ダリル・スペンサー。享年89。
このスペンサー、1960年代から1970年代にかけて、日本のプロ野球球団、阪急ブレーブス(現:オリックス・バッファローズ)に在籍し、日本の野球を変えたと言われています。
今回は、 メジャー通算10年、NPB日本プロ野球通算7年731試合に出場し、2割7分5厘、ホームラン152本、打点39という成績を遺して世を去ったダリル・スペンサー氏について、チームメイトでもあった山田さんに振り返ってもらいました。
山田久志(左)と若狭圭一アナウンサー
「ちょうど(私と)20歳ぐらい違うんですよ。私がプロ野球に入った時(1969年)はいなかったんです。 一回退団されていてまたアメリカに帰ってたんですよね」
山田さんいわく、スペンサー氏は「野球博士」。ピッチャーのクセから配球を読むというのは、今の野球界では当たり前の戦術ですが、実はこれもスペンサーが日本に持ち込んだものでした。
「ピッチャーがグローブに収めた瞬間に、次は何くるとかとか、球が入ったら隠し持つとか、そういうグローブの角度だとか手首の角度はとか、球種を100%近くわかって、それを全部小さい手帳にぎっしり書いてたって。
最初はみんな何を書いてたかわからなかった。メジャーでは誰でもやってる当たり前のことだって。何やってるんだってみんな興味を持った。こういう風にして見るんだって教えてくれたわけですよね。だから阪急というチームは強くなっていくわけ」
このメモは「スペンサーメモ」と呼ばれ、阪急の選手のみならず、当時南海ホークス(現:福岡ソフトバンクホークス)でプレイング・マネージャーとして活躍していた野村克也さんにも大きな影響を与えました。
「ID野球」など日本のプロ野球における頭脳戦を初めてもたらしたのが、誰あろうスペンサー氏なんです。
今年のシーズンから、日本のプロ野球では「併殺崩しを狙った二塁ベース付近での危険なプレー」、すなわちスライディングが実質的に禁止とされます。実はこのスライディングを日本に持ち込んだのもスペンサー氏。
しかし、山田さんは、スペンサー流スライディングがすなわちラフプレーではなかったと力説します。
「例えば誰かが行ってスライディングしてダブルプレー盗られるじゃないですか。軽くスライディングすると(スペンサー氏が)ベンチで怒ってました。なぜ味方の打った選手を助けないんだ!というわけ。ダブルプレーになったとしても、スライディングして助けようという意志を見せなくちゃいけないと。だから誤解されたらしいんですよ。ラフプレーじゃないかって。アメリカにしたら普通のことだと。ダブルプレーを助けるために、あいつを助けるために俺は行くんだっていうね。それがチームとして成り立つんだって。格好良い選手でしたよ」
つまりスペンサー氏が持ち込んだスライディングのそもそもの目的は、相手を潰すことよりも味方を助けようという発想だったわけです。
日本のプロ野球を変えた男、ダリル・スペンサー。
奇しくも彼が亡くなった2017年、日本のプロ野球から彼の生きていた証がひとつ消えてしまうのです。
今年1月2日、ひとりの野球人が世を去りました。1950年代から60年代にかけてニューヨーク・ジャイアンツ(現:サンフランシスコ・ジャイアンツ)、セントルイス・カージナルス、ロサンゼルス・ドジャース、シンシナティ・レッズと大リーグを渡り歩いた名内野手、ダリル・スペンサー。享年89。
このスペンサー、1960年代から1970年代にかけて、日本のプロ野球球団、阪急ブレーブス(現:オリックス・バッファローズ)に在籍し、日本の野球を変えたと言われています。
今回は、 メジャー通算10年、NPB日本プロ野球通算7年731試合に出場し、2割7分5厘、ホームラン152本、打点39という成績を遺して世を去ったダリル・スペンサー氏について、チームメイトでもあった山田さんに振り返ってもらいました。
スペンサー氏は頭脳野球の生みの親だった?
山田さんいわく、スペンサー氏は「野球博士」。ピッチャーのクセから配球を読むというのは、今の野球界では当たり前の戦術ですが、実はこれもスペンサーが日本に持ち込んだものでした。
「ピッチャーがグローブに収めた瞬間に、次は何くるとかとか、球が入ったら隠し持つとか、そういうグローブの角度だとか手首の角度はとか、球種を100%近くわかって、それを全部小さい手帳にぎっしり書いてたって。
最初はみんな何を書いてたかわからなかった。メジャーでは誰でもやってる当たり前のことだって。何やってるんだってみんな興味を持った。こういう風にして見るんだって教えてくれたわけですよね。だから阪急というチームは強くなっていくわけ」
このメモは「スペンサーメモ」と呼ばれ、阪急の選手のみならず、当時南海ホークス(現:福岡ソフトバンクホークス)でプレイング・マネージャーとして活躍していた野村克也さんにも大きな影響を与えました。
「ID野球」など日本のプロ野球における頭脳戦を初めてもたらしたのが、誰あろうスペンサー氏なんです。
誤解を受けたスライディングの真意
今年のシーズンから、日本のプロ野球では「併殺崩しを狙った二塁ベース付近での危険なプレー」、すなわちスライディングが実質的に禁止とされます。実はこのスライディングを日本に持ち込んだのもスペンサー氏。
しかし、山田さんは、スペンサー流スライディングがすなわちラフプレーではなかったと力説します。
「例えば誰かが行ってスライディングしてダブルプレー盗られるじゃないですか。軽くスライディングすると(スペンサー氏が)ベンチで怒ってました。なぜ味方の打った選手を助けないんだ!というわけ。ダブルプレーになったとしても、スライディングして助けようという意志を見せなくちゃいけないと。だから誤解されたらしいんですよ。ラフプレーじゃないかって。アメリカにしたら普通のことだと。ダブルプレーを助けるために、あいつを助けるために俺は行くんだっていうね。それがチームとして成り立つんだって。格好良い選手でしたよ」
つまりスペンサー氏が持ち込んだスライディングのそもそもの目的は、相手を潰すことよりも味方を助けようという発想だったわけです。
日本のプロ野球を変えた男、ダリル・スペンサー。
奇しくも彼が亡くなった2017年、日本のプロ野球から彼の生きていた証がひとつ消えてしまうのです。