CBCラジオ #プラス!

誕生から100年!「ボンタンアメ」が愛され続ける理由とは

レトロなパッケージと爽やかな文旦(ボンタン)の風味で親しまれている「ボンタンアメ」が、今年で発売100周年を迎えました。

6月30日放送の『CBCラジオ #プラス!』では、製造元のセイカ食品株式会社総務部総務課の時任智恵子さんに、長く愛され続ける秘密と歴史について詳しく話を伺いました。

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南国の香りともちもち食感

ボンタンアメは、もち米を使用したもちもちと柔らかく弾力のある食感と、南国特産の文旦の爽やかな風味が特徴のお菓子です。

1粒ずつオブラートで包装されており、そのまま食べることができます。発売以来、パッケージや味もほとんど変わっておらず、懐かしさを感じられる商品です。

現在の製造数は年間約1億2000万粒で、14粒入りパッケージに換算すると約857万個。単純計算では日本人ひとりが年に1粒ずつ食べている計算になります。

従業員の遊びから生まれたアイデア

セイカ食品はもともと水飴を製造していましたが、売上が伸びず経営が思わしくありませんでした。そこで水飴を使った朝鮮飴や文旦漬けの製造販売に転換しました。

転機となったのは、初代社長の玉川壮次郎さんが工場の従業員の行動を見たときでした。工場の従業員がはさみで朝鮮飴を切って遊んでいるのを見て、ひとくちサイズの飴に文旦の色と香りをつけてキャラメル箱に詰めて商品化するアイデアをひらめいたのです。

大阪の専門家に依頼したパッケージデザインは「田舎っぽい」という批判もあったものの、南国らしい色彩がかえって好かれたといいます。

その後、鉄道売店を中心に徐々に販売エリアを関西圏や首都圏へと広げていきました。

ボンタンアメもそれを包むオブラートも、温度や湿度に非常に敏感な商品です。四季を通じて同じ品質を保つため、製造工程や管理基準は常にアップデートしているそうです。

戦時中の工場全焼を乗り越え

100年の歴史の中で最も大変だったのは戦時中でした。
終戦直前の昭和20年6月に堀江町の工場が全焼。鹿児島市内もほとんどが焼けてしまう中、幸いにもひとりの負傷者もなく、海岸に逃れることができたそうです。

終戦後は焼け跡に2坪半の掘立小屋のような事務所を作り、10月頃から工場の再建に取り掛かりました。翌年の昭和21年の春には、バラック作りではあるものの120坪の工場が完成。

昭和22年頃からその工場で配給パンを製造。昭和24年~25年頃に水飴や砂糖の統制が外れたため、本格的なボンタンアメの製造ができるようになったといいます。

「ときどき、ずっと。」に込めた思い

ボンタンアメが100周年を迎えた理由について、時任さんは「ときどき、ずっと。」というキャッチフレーズと共に歩んできたことを挙げます。

カレーなら1週間に1回、ラーメンなら2週間に1回、お寿司なら1ヶ月に1回といった例を挙げて人それぞれに食のサイクルがあると説明し、「願わくば、お客様の食のサイクルのひとつにボンタンアメを入れていただいて。5年に1度でも10年に1度でも、『ときどき、ずっと。』食べていただける存在になりたい」と語りました。

また、100年間続けてこられた理由について、「お客様と原材料などを供給している皆様の支援に加え、これまでの先輩方がその時々で地道な取り組みを行なってきた積み重ねが今につながっている」と続けました。

変わらぬ美味しさを届けたい

時任さんは今後の展望について、「皆様に『ときどき、ずっと。』食べていただけるよう、今後も安心安全な製品作りに邁進していきたい」と語ります。

セイカ食品では「これおいしいね!をあなたに」をブランドビジョンに掲げており、時任さんは「これまでもこれからも、お客様に『これおいしいね!』と言っていただける商品をお届けすることが私どもの存在意義」だと強調しました。

戦時中の工場全焼という困難を乗り越え、一貫した味とパッケージで100年間愛され続けてきたボンタンアメ。その背景には、品質を守り続けてきた努力と、お客様への変わらぬ想いがありました。
(minto)
 
CBCラジオ #プラス!
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2025年06月30日07時42分~抜粋

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