大石邦彦のNOW ON SHARE!

戦後78年。水上・水中の特攻隊を経験した元軍人に訊く

今年で終戦78年を迎えました。
悲劇のひとつとして今でも語り継がれるのは、若者たちで編成された特攻部隊。
特攻といえば”カミカゼ特攻隊”のエピソードが有名ですが、水上や水中にも特攻隊があったそうです。

8月12日放送の『大石邦彦のNOW ON SHARE!』では、CBC論説室の大石邦彦アナウンサーが元軍人に訊いた知られざる戦争の話をお伝えします。

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98歳の元・水上特攻隊員

8月15日は太平洋戦争が終戦を迎えた日。
1945年(昭和20年)のこの日、ポツダム宣言を受託し、ラジオで天皇陛下により玉音放送が行われ、国民は戦争が終わったことをを知りました。

今年で78年となります。

大石「戦争の取材は毎年ライフワークのようにやってきました。もう20年近くになりますかね」

すでに80年近い時間が流れ、リアルタイムで戦争を知る世代は少なくなる一方です。
戦地に赴いた人を探すのも年々難しくなる中、大石が御年98歳の戦争体験者にインタビューを試みました。

お話を伺ったのは、岐阜県多治見市にお住まいの元・水上特攻隊「マルレ」の隊員・佐野博厚さん。終戦当時は20歳でした。

「特攻」と聞くと、戦闘機に乗って敵艦に突撃した「カミカゼ特攻隊」のイメージを抱く方も多いと思います。
しかし、実は水上や水中でも「特攻」があったそうです。

大石「敵の船に体当たり。海の特攻、陸の特攻があるわけです」

それが「人間魚雷(回天)」と言い伝えられるものです。

大石「魚雷を改造して、ひとりが座れるスペースを作りました」

水中に潜伏する特攻も

その実体は、魚雷の先端に250キロの爆弾を搭載した小型のモーターボートで、陸軍の特攻と海軍の特攻の2種類がありました。

いまや想像もつきませんが、陸軍の特攻にあたる「マルレ」は「自殺ボート」と呼ばれ、米軍に恐れられていました。

また「伏龍」と呼ばれる水中の特攻もありました。重さ80キロの服を着て、水中でスタンバイします。

こちらの話をしてくれたのは、岐阜県にお住まいの鈴木道郎さん。
当時10代の鈴木さんは、空の特攻を志願したものの、終戦間際で飛行機の数が少なかったため、「伏龍」に回されたそうです。

大石「槍の先端に爆弾をつけているわけですよ」

米軍の船が頭上を通過するのを待ち、通過時に浮上して、5メートルの機雷棒で木っ端微塵に爆破させるのだそう。こちらは「人間機雷」と呼ばれていました。

大石「人の命を無視した、あり得ない特攻があったわけですよ」

教育の必要性

理不尽な作戦が取られていた当時について、「人の命があまりにも軽かった」と回顧する佐野さん。

大石「それが戦争ということなんでしょうか?」

最終的に佐野さんは特攻として出撃しないまま終戦を迎え、命拾いをしました。ただ、1泊2日の体験入隊当時は誇りに思っていたとか。

大石「軍人さんかっこいいな、と思ったそうです」

戦争に何の疑問も抱かなかったという当時の佐野さん。
というのも、教科書に「大和魂の武勇伝」として載っていたため、そうした思想を躊躇なく受け入れていたそう。

それどころか「戦争は悪いものではない。日本のために命を捨てるのは素晴らしいこと」と信じ切っていました。
「教育は恐ろしい。だから教育は大切」と語る佐野さん。

メディアの責務

一方、教育だけでなく「メディアの責任」も大きい、と自戒を込める大石。
放送や新聞には、情報の正しさをチェックせず「大本営発表」として報道し、権力の監視を怠った負の歴史があります。

今ではコロナ禍やウクライナ戦争などで、巷から発信される情報量も増えました。
客観的で正確な情報を伝える責務を担うマスメディアの重要性は、今後ますます高まっています。

大石「改めて反省しなければいけないと思います」

苦い経験を後の世代に伝えることが悲劇を繰り返さないことにつながります。
同じ轍を踏まないことを誓う大石でした。
(nachtm)
 
大石邦彦のNOW ON SHARE!
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2023年08月12日11時44分~抜粋

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