ちょうど100年前の1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が発生。
首都圏を中心に約10万5千人もの死者・行方不明者を出し、経済的な被害は当時の金額で55億円。現在の価値に直すと30兆円ほどと言われています。
今後、これだけ大きな地震がまた発生してしまう前に、私たちはどのように備えれば良いのでしょうか?
9月2日放送『北野誠のズバリサタデー』では、『関東大震災がつくった東京 - 首都直下地震へどう備えるか』(中公選書)の著者で、名古屋大学減災連携研究センター特任教授の武村雅之先生が、関東大震災から学ぶべき教訓について解説しました。
関東大震災から100年…東京と名古屋の防災機能に大きな差が生まれていた!
3度の大きな揺れ
関東大震災の原因となった地震の規模は、現在もマグニチュード7.9と言われています。
しかし武村先生によれば、「実は根拠はよくわからない」のとのこと。
というのも当時、一部の地域で地震計が振り切れていたためです。
そこで武村先生は30年ほど前から研究を行い、地震計が振り切れていない地域が6か所あることを知り、今の気象庁が決めている方法で計算したところ、7.9~8.3と推定されることがわかりました。
たった0.4の差ですが、マグニチュードは1増えるとエネルギーは32倍大きくなるため、かなりの違いがあります。
また関東大震災には、余震もかなり大きい特徴がありました。
本震の3分後と4分後にも大きな揺れがあり、当時、多くの人々は「3回大きな揺れがあった」と証言していたそうで、さらにマグニチュード7を超える余震は6回もあったそうです。
しかし武村先生によれば、「実は根拠はよくわからない」のとのこと。
というのも当時、一部の地域で地震計が振り切れていたためです。
そこで武村先生は30年ほど前から研究を行い、地震計が振り切れていない地域が6か所あることを知り、今の気象庁が決めている方法で計算したところ、7.9~8.3と推定されることがわかりました。
たった0.4の差ですが、マグニチュードは1増えるとエネルギーは32倍大きくなるため、かなりの違いがあります。
また関東大震災には、余震もかなり大きい特徴がありました。
本震の3分後と4分後にも大きな揺れがあり、当時、多くの人々は「3回大きな揺れがあった」と証言していたそうで、さらにマグニチュード7を超える余震は6回もあったそうです。
なぜ東京の被害が大きかった?
関東大震災の原因となった地震の震源地は神奈川県西部でしたが、なぜ大きな被害が東京で起きてしまったのでしょうか?
それは、人口が多いということだけではない原因があるようです。
武村先生「被害のほとんどが火災だったんですね。そういうことを考えると、どうも明治以降の街づくりがまずかった、ということなんじゃないかと思いますね。
江戸時代、江戸の7割ぐらいは武家屋敷や寺社地だったんですね。
明治になって一度国有化した時にきちんと都市計画をやれば良かったんだけど、それをしなかった。
特に地盤の非常に悪い隅田川の東側にどんどん工場ができて、その周りに従業員が住んで最悪の木造密集地ができて、その状況で関東大震災が起きた。
だから火災が非常に広範囲に広がってしまったんですね」
それは、人口が多いということだけではない原因があるようです。
武村先生「被害のほとんどが火災だったんですね。そういうことを考えると、どうも明治以降の街づくりがまずかった、ということなんじゃないかと思いますね。
江戸時代、江戸の7割ぐらいは武家屋敷や寺社地だったんですね。
明治になって一度国有化した時にきちんと都市計画をやれば良かったんだけど、それをしなかった。
特に地盤の非常に悪い隅田川の東側にどんどん工場ができて、その周りに従業員が住んで最悪の木造密集地ができて、その状況で関東大震災が起きた。
だから火災が非常に広範囲に広がってしまったんですね」
関東大震災の反省を活かす
復興後、東京では関東大震災の教訓を活かした街づくりとなったのでしょうか?
武村先生「関東大震災のようなことが二度と起こってほしくないということで、1930年(昭和5年)ぐらいまで帝都復興事業というのが行われたんですよ。
これは徹底的に都市の基盤整備をやったわけです。
特徴が市民のためにやるんだという公共性を第一にして、しかも同じやるんだったら世界に恥ずかしくない品格のある街を作ろうということで、区画整理をやったり広い道路を作ったり。
橋は耐火はもちろん、素晴らしい橋をいくつも架けたり、素晴らしい公園をたくさん作ったり…おそらく昭和の初めの東京は、今までで一番素晴らしい街だったんですよ」
武村先生「関東大震災のようなことが二度と起こってほしくないということで、1930年(昭和5年)ぐらいまで帝都復興事業というのが行われたんですよ。
これは徹底的に都市の基盤整備をやったわけです。
特徴が市民のためにやるんだという公共性を第一にして、しかも同じやるんだったら世界に恥ずかしくない品格のある街を作ろうということで、区画整理をやったり広い道路を作ったり。
橋は耐火はもちろん、素晴らしい橋をいくつも架けたり、素晴らしい公園をたくさん作ったり…おそらく昭和の初めの東京は、今までで一番素晴らしい街だったんですよ」
街づくりは失敗か?
街「だった」と過去形になっているのは、なぜでしょうか?
武村先生「1932年(昭和7年)に東京が今の23区の広さに広がるんですけど、その時に街づくりの方針を引き継げなかった。だから、また同じように今度は郊外に木造密集地を作ってしまう。
その後、戦争で広範囲に焼けますよね。
そうすると、帝都復興事業でうまく行ってなかった部分をきちっとやるチャンスだったんですけど、特に食糧難が理由でやれなかった」
そして、1964年(昭和39年)の東京オリンピック開催により、都市を整備するチャンスがやってくるのですが、それも逃してしまいます。
武村先生「効率化をめざした結果、せっかく残ってた道路、公園、水辺というのを食いつぶして、手っ取り早く高速道路を作っちゃったんですね。
相変わらず郊外の木造密集地は放ったらかしという状況があったんです」
武村先生「1932年(昭和7年)に東京が今の23区の広さに広がるんですけど、その時に街づくりの方針を引き継げなかった。だから、また同じように今度は郊外に木造密集地を作ってしまう。
その後、戦争で広範囲に焼けますよね。
そうすると、帝都復興事業でうまく行ってなかった部分をきちっとやるチャンスだったんですけど、特に食糧難が理由でやれなかった」
そして、1964年(昭和39年)の東京オリンピック開催により、都市を整備するチャンスがやってくるのですが、それも逃してしまいます。
武村先生「効率化をめざした結果、せっかく残ってた道路、公園、水辺というのを食いつぶして、手っ取り早く高速道路を作っちゃったんですね。
相変わらず郊外の木造密集地は放ったらかしという状況があったんです」
地震に弱い街、東京
防災に向けた都市計画が行われなかったとのことですが、これは今も変わりません。
武村先生「さらに経済優先と効率化は今も続いていて、容積率を緩和するということをやったんですね」
容積率を緩和すると、高い建物が建てられるようになります。
また、2000年(平成12年)に法律が改正され、容積率の売り買いができるようになったため、どんどん高い建物が建てやすくなりました。
武村先生「容積率の緩和は金の成る木で、ものすごく儲かった人がいる一方で、都心に高層ビルが林立するということは、働いている市民がものすごく増えて、長時間通勤が深刻化するし、いざ地震が起こってしまったら、その人たちは全員帰宅困難者になりますね」
高層ビルではエレベーターをよく使うため、地震発生時に閉じ込められると困りますし、階段で外へ出ようと思ってもかなり大変です。
経済を優先した結果、地震に弱い街となってしまったのが今の東京の現状であると語る武村先生です。
武村先生「さらに経済優先と効率化は今も続いていて、容積率を緩和するということをやったんですね」
容積率を緩和すると、高い建物が建てられるようになります。
また、2000年(平成12年)に法律が改正され、容積率の売り買いができるようになったため、どんどん高い建物が建てやすくなりました。
武村先生「容積率の緩和は金の成る木で、ものすごく儲かった人がいる一方で、都心に高層ビルが林立するということは、働いている市民がものすごく増えて、長時間通勤が深刻化するし、いざ地震が起こってしまったら、その人たちは全員帰宅困難者になりますね」
高層ビルではエレベーターをよく使うため、地震発生時に閉じ込められると困りますし、階段で外へ出ようと思ってもかなり大変です。
経済を優先した結果、地震に弱い街となってしまったのが今の東京の現状であると語る武村先生です。
名古屋の街づくりは大丈夫?
一方、この番組を放送している場所、名古屋の街づくりはどうなのでしょうか?
北野「名古屋の街づくりは結構理想的ですかね?道路も広いし、公園も整備してますからね」
武村先生「名古屋は、実は1924年(大正13年)から東京の帝都復興事業を見習って街づくりを始めたんですね。
それを戦後も、市民や行政も一体となって進めてきたから、東京と真逆の道を進んだんですよ。
私は名古屋に11年ほど前から住んでるんですけど、東京と違って住みやすさに感動したんですね。道路率も20%と、東京の帝都復興事業と同じぐらい。街路樹や避難する公園もかなりあって」
大地震への備えで大事なこととして、名古屋の市民に対しどのように街づくりをしてきたか知ってほしいと語る武村先生。
経済だけではなく、市民がいかに住みやすいかということを街づくりの最優先課題にすることが大事と語りました。
(岡本)
北野「名古屋の街づくりは結構理想的ですかね?道路も広いし、公園も整備してますからね」
武村先生「名古屋は、実は1924年(大正13年)から東京の帝都復興事業を見習って街づくりを始めたんですね。
それを戦後も、市民や行政も一体となって進めてきたから、東京と真逆の道を進んだんですよ。
私は名古屋に11年ほど前から住んでるんですけど、東京と違って住みやすさに感動したんですね。道路率も20%と、東京の帝都復興事業と同じぐらい。街路樹や避難する公園もかなりあって」
大地震への備えで大事なこととして、名古屋の市民に対しどのように街づくりをしてきたか知ってほしいと語る武村先生。
経済だけではなく、市民がいかに住みやすいかということを街づくりの最優先課題にすることが大事と語りました。
(岡本)
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