9月30日、アントニオ猪木さんの訃報は多くの人に衝撃を与えました。
老若男女、プロレスを知らない人でも名前と顔が一致するほどの有名人で、国会議員としても活躍しました。
10月3日放送『北野誠のズバリ』(CBCラジオ)では、プロレスファンの北野誠と戸井康成が猪木さんの思い出について語りました。
格闘技・政治・闘病に燃え尽きた闘魂・アントニオ猪木さんの偉業
プロレスの陽と陰
現在60代の北野は、小さい頃にプロレスから大きな影響を受けていたようです。
北野「僕らは小学生の時にBI砲(ジャイアント馬場とアントニオ猪木のタッグチーム)を観てるんですよね。
その頃、プロレス少年やったから『月刊ゴング』を買ってて。闘ってるプロレスラーのカラーグラビアとか見てましたから。
技の分解写真とかコマ落としとか(紙面を)飾ってましたからね」
ジャイアント馬場さんと猪木さんは力道山さんのもと同じ日(1960年9月30日)に日本プロレスでデビューし活躍していました。
その後猪木さんは東京プロレスに引き抜かれたものの団体がなくなり、再び日本プロレス復帰後に前述のBI砲で人気を得ました。
しかし昭和46年にあらぬ疑いで追放され、翌年新日本プロレスを設立します。
北野「猪木さんのいた新日本プロレスは影の存在だった」
戸井「アイデアと度胸で乗り越えていく、それが僕ら少年には男のロマンを感じたんですよね」
北野「僕らは小学生の時にBI砲(ジャイアント馬場とアントニオ猪木のタッグチーム)を観てるんですよね。
その頃、プロレス少年やったから『月刊ゴング』を買ってて。闘ってるプロレスラーのカラーグラビアとか見てましたから。
技の分解写真とかコマ落としとか(紙面を)飾ってましたからね」
ジャイアント馬場さんと猪木さんは力道山さんのもと同じ日(1960年9月30日)に日本プロレスでデビューし活躍していました。
その後猪木さんは東京プロレスに引き抜かれたものの団体がなくなり、再び日本プロレス復帰後に前述のBI砲で人気を得ました。
しかし昭和46年にあらぬ疑いで追放され、翌年新日本プロレスを設立します。
北野「猪木さんのいた新日本プロレスは影の存在だった」
戸井「アイデアと度胸で乗り越えていく、それが僕ら少年には男のロマンを感じたんですよね」
「世紀の一戦」のはずが…
戸井が「アイデアと度胸で乗り越え」たと形容し、ファンの間で長く語り継がれている一戦が、『猪木VSモハメド・アリ戦』。
1976年(昭和51年)に日本武道館で開催され、プロレスラーである猪木さんとボクシング世界ヘビー級チャンピオンのアリとの戦いで、「異種格闘技戦」という名が浸透するきっかけとなりました。
まだ昼まで学校をやっていた時代、土曜日の昼に放送されたそうで、当時はビデオがなかったため、北野は学校が終わって急いで帰ったそうです。
ただこの試合では、使用できるプロレス技にかなり制限がかかっていたため、猪木さんにとっては苦しい戦いでした。
北野「寝技でやったらイカンとかなって」
戸井「立ってキックやパンチもアカンとか」
北野「もうスライディングしかないやん。ルールでガチガチにしばられたら、そらやることないもんな」
1976年(昭和51年)に日本武道館で開催され、プロレスラーである猪木さんとボクシング世界ヘビー級チャンピオンのアリとの戦いで、「異種格闘技戦」という名が浸透するきっかけとなりました。
まだ昼まで学校をやっていた時代、土曜日の昼に放送されたそうで、当時はビデオがなかったため、北野は学校が終わって急いで帰ったそうです。
ただこの試合では、使用できるプロレス技にかなり制限がかかっていたため、猪木さんにとっては苦しい戦いでした。
北野「寝技でやったらイカンとかなって」
戸井「立ってキックやパンチもアカンとか」
北野「もうスライディングしかないやん。ルールでガチガチにしばられたら、そらやることないもんな」
世紀の凡戦ではなかった!
試合前は「世紀の一戦」という触れ込みでしたが、試合展開に盛り上がりが欠けたためか、試合後は「世紀の凡戦」と酷評を浴びる結果になりました。
北野「『世紀の凡戦』やったけど、結局あの後モハメド・アリが2、3日して(猪木さんのローキック攻撃が原因で)左足が血栓症になったっていうのを聞いた時に、リアルな(戦いと感じた)。
そっからローキックのことをアリキックと呼ぶようになったし」
戸井「そのあと、アリから『炎のファイター』という入場曲(『イノキ・ボンバイエ』として有名)をプレゼントされたり、親交が深まって。
実は『世紀の凡戦』じゃなくて、格闘技のイロハのイじゃないかといわれて」
北野も語ったように、後年になって戦った両者や周囲の証言から「これぞ本当の真剣勝負」と試合の評価が逆転しました。
この戦いがなければ、異種格闘技戦ブームは生まれなかったのかもしれません。
北野「『世紀の凡戦』やったけど、結局あの後モハメド・アリが2、3日して(猪木さんのローキック攻撃が原因で)左足が血栓症になったっていうのを聞いた時に、リアルな(戦いと感じた)。
そっからローキックのことをアリキックと呼ぶようになったし」
戸井「そのあと、アリから『炎のファイター』という入場曲(『イノキ・ボンバイエ』として有名)をプレゼントされたり、親交が深まって。
実は『世紀の凡戦』じゃなくて、格闘技のイロハのイじゃないかといわれて」
北野も語ったように、後年になって戦った両者や周囲の証言から「これぞ本当の真剣勝負」と試合の評価が逆転しました。
この戦いがなければ、異種格闘技戦ブームは生まれなかったのかもしれません。
いつもハラハラさせられるファン
猪木さんが牽引してきた新日本プロレスは、70年代後半から80年代初頭にかけて、異種格闘技戦の成功から初代タイガーマスクの大ブームにより、テレビ中継は常に高視聴率、どの会場も超満員となり、一大ブームを築きました。
ところが80年代中盤となると、猪木さんの事業失敗などに加えてタイガーマスクや長州力さんなどの人気選手が相次いで離脱、一気に危機を迎えます。
戸井「もうアカンと思いましたよね、さすがの猪木もギブアップだと。本人も体力的に下り坂だったしね」
しかし、猪木さんは再び勢いを取り戻します。一線を退いて参議院選挙にスポーツ平和党として立候補し、見事当選を果たします。
北野「なんやかんややってるうちに国会議員に。あれもビックリしましたけど、100万票取りましたからね」
その後、湾岸戦争での日本人人質解放に動いたり、北朝鮮を30回に渡って訪問するなど前例のない外交活動を行い、世間の話題を集めました。
北野「国会議員になったからいうても、常にハラハラしてるアントニオ猪木に触れてきたわけです」
戸井「常にカウント2.9!」
北野「波乱万丈で、われわれファンが見てても『またやるわ、こんなこと。ちっとは落ち着けよ!猪木』って。
でも僕らの中では常に動いてくれてるアントニオ猪木さんが好きで。プロレスのカテゴリーに収まってないのが猪木さんですよね」
その猪木さんも1998年(平成10年)にプロレスラーを引退しましたが、東京ドームで開かれた試合の入場者数は、なんと7万人ととてつもない数字でした。
最後にあらためて「昭和の名プロレスラーやったと思います」と語り、故人の冥福を祈りました。
(岡本)
ところが80年代中盤となると、猪木さんの事業失敗などに加えてタイガーマスクや長州力さんなどの人気選手が相次いで離脱、一気に危機を迎えます。
戸井「もうアカンと思いましたよね、さすがの猪木もギブアップだと。本人も体力的に下り坂だったしね」
しかし、猪木さんは再び勢いを取り戻します。一線を退いて参議院選挙にスポーツ平和党として立候補し、見事当選を果たします。
北野「なんやかんややってるうちに国会議員に。あれもビックリしましたけど、100万票取りましたからね」
その後、湾岸戦争での日本人人質解放に動いたり、北朝鮮を30回に渡って訪問するなど前例のない外交活動を行い、世間の話題を集めました。
北野「国会議員になったからいうても、常にハラハラしてるアントニオ猪木に触れてきたわけです」
戸井「常にカウント2.9!」
北野「波乱万丈で、われわれファンが見てても『またやるわ、こんなこと。ちっとは落ち着けよ!猪木』って。
でも僕らの中では常に動いてくれてるアントニオ猪木さんが好きで。プロレスのカテゴリーに収まってないのが猪木さんですよね」
その猪木さんも1998年(平成10年)にプロレスラーを引退しましたが、東京ドームで開かれた試合の入場者数は、なんと7万人ととてつもない数字でした。
最後にあらためて「昭和の名プロレスラーやったと思います」と語り、故人の冥福を祈りました。
(岡本)
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