北野誠のズバリ

実は「本能寺の変」の現場にいなかった?明智光秀を弁護

日本史ではいまだに史実がハッキリしていないことや、後から新たな資料が発見されることで史実が変わったりすることがあり、そこに興味を惹かれることがあります。

8月14日放送『北野誠のズバリサタデー』では、『逆転無罪!日本史をザワつかせた悪人たち』(河出書房新社)の著者で、歴史作家の河合敦先生に、今まで私たちが刷り込まれていた悪人や悪行のイメージが覆るようなお話を伺いました。

ここでは「本能寺の変」で織田信長を討ったと言われる明智光秀について、これまで一般的に伝わっているエピソードとは異なるお話を紹介します。

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謎が多い光秀の経歴

明智光秀については謎が多く、特に人生の前半部分については、あまりよくわかっていません。

言い伝えでは美濃出身で斎藤道三の家臣だったといわれていますが、一次資料にあたることができないそうです。

歴史上の舞台に出てきたのは、織田信長に仕えた40歳ぐらいからで、宣教師のルイス・フロイスが記した『日本史』に、光秀の人となりが紹介されています。

その内容がひどいもので、「狡猾な人物で裏切りや密会を好み、自分のことを偽装するのに抜け目なく、信長に贈り物をして喜ぶためには嘘泣きもする」と酷評。

河合先生「たぶんキリスト教に協力的じゃなかった人は、みんな悪く書くので、そういったこともあるかもしれないですね。娘さんはガラシャさんといって、キリスト教に入信された方ですけど」
 

優秀な人材だった光秀

信長に登用されたのは、光秀が公家との交際もあり、お茶や連歌が得意な教養人だったという点について、信長の他の家臣にはないスペックだったということがあるようです。

また、城造りが上手で、琵琶湖のほとりにある坂本城は、当時の記録によると、安土城に次いで素晴らしいというほどの高評価。

他にも周山城という巨大な山城を造り、福知山城では多くの石仏やお墓を石垣に使うという斬新なアイデアで、早期に築城しています。

フロイスからはひどい言われようだった光秀ですが、裏を返せば、贈り物などをして気遣いのできる人ともいえ、さまざまな武将や公家にもサプライズをして喜ばせていたそうです。

河合先生「よそ者だったので、いろいろ気遣いをしながらうまく登っていったっていうところがあるかもしれないですね。

ルイス・フロイスによれば、(信長の家臣団)全員から嫌われていたと」

フロイスの評価は、覆らないようです。

信長の前は、最後の将軍である足利義昭に仕えていたそうで、家臣団からはあまりよく思われていなかったのかもしれません。

また、いきなり登用されて坂本城を持つ大名になったのも、家臣団からよく思われていなかったのかもしれません。
 

「本能寺の変」、実は光秀は…

光秀といえば最も有名なのが「本能寺の変」ですが、最近、ここに明智光秀はいなかったのではないかという新たな研究結果が明らかになりました。

河合先生「一次資料ではないんですけど、当時の人から聞いたそこそこ信憑性の高いんじゃないかと言われるものに、信長が本能寺を逃れてきたら、8km離れた鳥羽街道で待ち伏せてやろうと考えていたのかなと。

直接手は下さないで、待ち伏せしていたらしいですね。

大阪には織田軍が1万数千人待機していたので、きっとそっちの方に来るんじゃないかという計算をしていたかもしれないですね」

つまり、光秀のご乱心で急に決めたのではなく、計画を綿密に練っていたことになりますが、計画から実行までの期間はそう長くなかったようです。

河合先生「10日前、信長とともに信忠が京都に来ることがわかったんですね。
その時はまだ来るかどうかわからず直前だったので、その時に親子同時にやってしまえるなと。
僕は個人的にはそのあたりから一気に気持ちが傾いたのかなと思いますね」

ただ、動機については諸説あり、全くわからないそうです。

明確に信長殺害を決意したという資料は全く残っておらず、数日前にくじ引きで吉が出るまで引き続けたとか、「土岐一族が天下を統一する」ことを匂わせた連歌を歌ったというエピソードは残っているそうです。
(岡本)
 
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2021年08月14日10時29分~抜粋

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