10月2日からスタートするNHK朝の連続テレビ小説『ブギウギ』のモデルになっているのが、昭和の大スター・笠置シヅ子さん。
「東京ブギウギ」や「買物ブギー」などの大ヒット曲を持つことから「ブギの女王」として知られる笠置さんですが、どのような人気を誇っていたのでしょうか?
9月26日放送『つボイノリオの聞けば聞くほど』(CBCラジオ)では、『笠置シヅ子ブギウギ伝説』(興陽館)の著者、娯楽映画研究家・オトナの歌謡曲プロデューサーの佐藤利明さんが解説します。
今度の朝ドラのモデル、笠置シヅ子ってどんな歌手?
13歳でデビュー
『笠置シヅ子ブギウギ伝説』は、笠置シズ子さんの半生、特に音楽にまつわる人生にスポットを当て、昭和エンタテインメントの歴史とともにたどる書籍です。
笠置さんは13歳でOSK日本歌劇団の前身となる松竹楽劇部に入り、少女歌劇の道を進み、1927年(昭和2年)に初舞台を踏みました。
「東京ブギウギ」がヒットしたのは1948年(昭和23年)のこと。初舞台からブレイクまでの21年間を中心に描いています。
戦前のジャズの状況や、戦争が始まって日本ではジャズが歌えなくなるという不安などが細かに描写されています。
笠置さんは最初、少女歌劇に入ってスターになりましたが、そのあとに男女混成のミュージカル劇団に入り、大作曲家の服部良一さんと出会います。
この出会いが人生を大きく変え、「ラッパと娘」という楽曲でジャズシンガーとしてデビューし、「スイングの女王」と呼ばれ人気を得ます。
笠置さんは13歳でOSK日本歌劇団の前身となる松竹楽劇部に入り、少女歌劇の道を進み、1927年(昭和2年)に初舞台を踏みました。
「東京ブギウギ」がヒットしたのは1948年(昭和23年)のこと。初舞台からブレイクまでの21年間を中心に描いています。
戦前のジャズの状況や、戦争が始まって日本ではジャズが歌えなくなるという不安などが細かに描写されています。
笠置さんは最初、少女歌劇に入ってスターになりましたが、そのあとに男女混成のミュージカル劇団に入り、大作曲家の服部良一さんと出会います。
この出会いが人生を大きく変え、「ラッパと娘」という楽曲でジャズシンガーとしてデビューし、「スイングの女王」と呼ばれ人気を得ます。
戦争を経た後にブレイク
笠置さんの人気がさらに伸びるかと思われた矢先に戦争が始まってしまい、敵国の文化であるジャズは禁止となります。
佐藤さんは、この当時笠置さんがどのようなステージをしていたのかを調べました。
服部さんは戦争真っただ中の1942年(昭和17年)、アメリカのアンドリューズ・シスターズのブギウギを聴いて、「日本にもいつかこれを取り入れよう」と密かに準備をしていたそうです。
戦争が終わった1947年(昭和22年)、笠置さんは吉本興業の創業者・吉本せいさんの子である吉本穎右さんのこどもを身ごもっていました。
「結婚して引退しよう」と考えていたところ、出産を前に穎右さんが急死してしまいます。
これからどうやって1人でこどもを育てたら良いのかと悩んでいた頃、服部さんにお願いして書いてもらった曲が「東京ブギウギ」なのだそうです。
佐藤さんは、この当時笠置さんがどのようなステージをしていたのかを調べました。
服部さんは戦争真っただ中の1942年(昭和17年)、アメリカのアンドリューズ・シスターズのブギウギを聴いて、「日本にもいつかこれを取り入れよう」と密かに準備をしていたそうです。
戦争が終わった1947年(昭和22年)、笠置さんは吉本興業の創業者・吉本せいさんの子である吉本穎右さんのこどもを身ごもっていました。
「結婚して引退しよう」と考えていたところ、出産を前に穎右さんが急死してしまいます。
これからどうやって1人でこどもを育てたら良いのかと悩んでいた頃、服部さんにお願いして書いてもらった曲が「東京ブギウギ」なのだそうです。
ブギだけではなかった
その後も笠置さんにはヒット曲が続きますが、歌っていたのはブギばかりではありません。
1950年(昭和25年)、服部さんとアメリカへ4か月間ツアーに行った笠置さん。
現地で出会ったビバップ・サウンドを帰国後すぐに取り入れ「オールマン・リバップ」という曲が生まれました。
笠置さんが歌手廃業を宣言したのは1957年(昭和32年)。最後の舞台ではロックンロールを歌ったりするなど、音楽の進化とともに歩まれているのです。
佐藤さんは笠置さんがブレイクした理由について、服部さんの才能と日本的に音楽をアレンジしていく面白さを挙げました。
一方でシングルマザーとして歌い続けてきた笠置さんに対し、同じく苦しい状況に置かれた女性にとっても励みになったと言われています。
『笠置シヅ子ブギウギ伝説』は、笠置さんの人生だけではなく、当時の音楽シーンがうかがい知れるのも面白い書籍です。
(岡本)
1950年(昭和25年)、服部さんとアメリカへ4か月間ツアーに行った笠置さん。
現地で出会ったビバップ・サウンドを帰国後すぐに取り入れ「オールマン・リバップ」という曲が生まれました。
笠置さんが歌手廃業を宣言したのは1957年(昭和32年)。最後の舞台ではロックンロールを歌ったりするなど、音楽の進化とともに歩まれているのです。
佐藤さんは笠置さんがブレイクした理由について、服部さんの才能と日本的に音楽をアレンジしていく面白さを挙げました。
一方でシングルマザーとして歌い続けてきた笠置さんに対し、同じく苦しい状況に置かれた女性にとっても励みになったと言われています。
『笠置シヅ子ブギウギ伝説』は、笠置さんの人生だけではなく、当時の音楽シーンがうかがい知れるのも面白い書籍です。
(岡本)
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