9月22日『つボイノリオの聞けば聞くほど』では、名古屋を拠点に活動する女性講談師の旭堂鱗林(りんりん)さんがゲスト出演しました。
鱗林さんによる創作講談『藤井聡太物語』の裏話に、つボイノリオと小高直子アナウンサーも聞き入っていました。
藤井聡太二冠との縁
2006年に藤井聡太二冠の地元、愛知県瀬戸市で開局したコミュニティFM 「RADIO SANQ」(ラジオサンキュー)。
鱗林さんはこの放送局でパーソナリティを務めています。
藤井聡太二冠がプロになる前、小学校4年生の時には、すでに「将棋の強い子」として地元で有名だったそうで、小学4年生の時と中学校1年生の時、この放送局に出演していたんだとか。
「私の番組だったら、いま天井突き抜けるぐらいに鼻高々ですけど、違うパーソナリティでした。まだちっちゃいから、お母様とおじいちゃんと一緒に来てて。そこでラジオ局とご家族との縁はあったんですよ」
身体が将棋の駒でできている
「忘れられないのが、そのパーソナリティが『聡太くん、何してる時が1番好きですか?』って言ったら『はい、将棋をやっている時が好きです』と。声変わりする前ですよ」
2番目に好きなものを聞くと「はい、詰将棋の問題を解いている時です」。
3番目は「はい、詰将棋の問題を考えている時です」という返事だったそうです。
鱗林「将棋以外で4番目は何ですか?って言ったら『はい、お味噌汁を作ることです』って」
つボイ「小学校4年生の子らしからぬ。何で味噌汁なんですか?」
鱗林「『はい、ふ(歩)を使うのが好きなんです』って」
小高「上手やなぁ(笑)」
実は「講談師、見てきたような嘘をつき。4番目は私の創作ですけど、上位3つは本当」という鱗林さん。
しかし「身体の細胞が将棋の駒でできとるんじゃないか、と思わせるぐらい将棋が大好きな男の子でした」と振り返ります。
将棋を知らないから無理
ある時ディレクターに「聡太君の講談を作ればいいじゃなか」と言われた鱗林さん。
将棋の駒の並べ方もわからず、笑って断ったそうです。
小高「これを語ろうと思うと、そういう世界もちゃんと勉強しないといけなくなりますもんね」
鱗林「ちょうどその頃、藤井四段の快進撃29連勝が続いていた最中でございましたので、毎週毎週何連勝って増えていくごとに、瀬戸の街が元気になっていくんですよ。駅前の様子もなんか違うし」
街の人の会話も「おはよう」ではなく、「昨日、勝ったね」とか「昨日の勝負飯は○○だったね」というように変っていったんだとか。
「街の目線でやったら講談ができるんじゃないか」
こう考えたことがきっかけで、3年前に『藤井聡太物語』を作り始めた鱗林さん。
寄席に来ていたお客さん
つボイ「それはある意味、ドキュメントじゃないですか。取材とかしたんですか?」
鱗林「これもご縁で、ご家族に繋いでいただいたり。もっと驚き桃の木だったのは熱田区の賀城園という料亭ですわ」
「賀城園」とは、明治37年頃に当地の豪族が別荘として建てた料亭、結婚式場です。
賀城園では年4回寄席を開いていて、鱗林さんも出ていたそうです。
鱗林「だいぶ前からやってたんですけど、『布団が吹っ飛んだ』って言っただけで、笑ってくれる素晴らしいお客様がいらしたので、舞台の上からよくいじったりしてたんです」
ある時、制作中の『藤井聡太物語』をやろう、と賀城園の社長に話したそうです。すると藤井二冠の祖母がお客さんで寄席に来ていると教えられ…。
鱗林「あのよう笑う奥方は聡太くんのおばあちゃんだったの。こういうの作ってるんですって言ったら、やりなさいよっていう感じで繋いでいただきました。おばあちゃんに取材させていただいたり、子供将棋教室の先生や東海将棋連盟の人に聞いたり」
10年後に聞いて欲しい
小高「聡太さんご自身も、講談の制作段階からご存知だった?」
鱗林「お母さんには伝えてありましたし、お母様もおばあちゃまも何回か聞いていただいてるので、ご本人は知ってると思います。でも、多感な年頃ですし、自分の話を聞きたにゃあと思う」
何度かイベントで一緒になり、鱗林さんが『藤井聡太物語』を語り、その後、藤井二冠の登場、ということもあったそうです。
では舞台袖で藤井二冠が聞く機会があったかというと、そうでもないそうで…。
鱗林「そういうイベントに彼が顔を出されると、取材取材で、別室でずっと取材を受けてるような感じ。とても『聞いてちょ』なんて言えませんでした。10年後に聞いてほしいなみたいな感じで、強引にCDをお母様に渡したことがあります」
(尾関)
つボイノリオの聞けば聞くほど
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2020年09月22日10時02分~抜粋