小堀勝啓の新栄トークジャンボリー

マモル・マヌーさんを偲ぶ。日本初のR&Bバンド「ザ・ゴールデン・カップス」

9月1日、ザ・ゴールデン・カップスでドラマー兼ボーカリストとして活躍したマモル・マヌー(本名・三枝守)さんが1日、心筋梗塞で亡くなりました。71歳でした。

13日放送の『小堀勝啓の新栄トークジャンボリー』では、パーソナリティの小堀勝啓が「日本初のR&Bバンド」と称されるザ・ゴールデン・カップスについて熱く語りました。

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ハウスバンドから出発

マモル・マヌーさんがリードボーカルをとった「長い髪の少女」。
この曲の大ヒットで、ザ・ゴールデン・カップスは60年代後半に起こったGS(グループサウンズ)ブームの中で一つの地位を築きました。

小堀「それだけではなく、ゴールデン・カップスはむちゃくちゃ深いです。カップスを語るにはやっぱり横浜という土地柄の話をしなくちゃいけない」と熱く語り始める小堀。

彼らが拠点としたのが横浜本牧にあるレストランバー。今でいうライブハウスの走りです。その名も「ゴールデンカップ」。そこのハウスバンドだからザ・ゴールデン・カップス。連日ライブを繰り広げていたそうです。

 

ドキュメンタリー映画

映像資料としては2004年に公開されたドキュメンタリー映画『ザ・ゴールデン・カップス ワンモアタイム』(サン・マー・メン監督)があります。
この映画には、彼ら自身のインタビューやライブの模様、そして彼らをリスペクトするアーティストたちのインタビューがぎっしり詰まってます。

例えば、どんな人が登場するかというと、北野武、ムッシュかまやつ、内田裕也、矢野顕子、忌野清志郎、Char、萩原健一、ジョー山中、柳ジョージ。
そして小堀とも親交の深いクレイジーケンバンドの横山剣。

当時からザ・ゴールデン・カップスが如何に特別なバンドだったかを語っています。

小堀「『ザ・ゴールデン・カップス ワンモアタイム』という映画はカップスを浮き彫りにするとともに日本の戦後を学ぶ格好の教材にもなってますので、ご覧頂きたいと思います」
 

カップスの映画で学ぶ戦後

1945年(昭和20年)に敗戦した日本に、アメリカの進駐軍が入ってきました。その進駐軍の居留地となったのが横浜です。金網で囲んで広大な敷地に、アメリカ軍の兵舎、家族住宅、PXと呼ばれる米軍専用の売店、ボーリング場、映画館などが建設され、フェンスの向こうはアメリカ状態。

世の中が落ち着いてきた1964年(昭和39年)、米軍基地に近い本牧の街に、オフの米兵が遊べる店として生まれたのが、前述の「ゴールデンカップ」です。

ザ・ゴールデン・カップスのリードボーカル、デイヴ平尾さんは「当時がらんとして、夜だから誰も通らん寂しい街だったんだよね、こんなとこに作ってどうすんだ?」と思ったそうです。

その疑問に反して、ゴールデンカップは若い米兵で大盛況。PXで買ってきたアメリカのレコードを持って来る米兵もいたんだとか。
 

豪華なメンバー

「アメリカの飲み屋には生バンドが入る」と聞いたオーナーの上西四郎さんは、店のハウスバンドを探し始めます。
ちなみ上西さんは90歳近い今なお、本牧の同じ場所でゴールデンカップを経営しています。

さて、バンド探しで白羽の矢が立ったのが、アメリカ帰りで自分のバンドを持っていたデイヴ平尾さん。デイヴさんがあっちこっちのバンドに声をかけて、腕利きをスカウトして作ったバンドが店の名前を冠したゴールデン・カップス。

リーダーでリードボーカルがデイヴ平尾、リードギターにエディ藩、サイドギターにケネス伊藤、ベース、ルイズルイス加部、ドラム&ヴォーカルがマモル・マヌー。この5人がオリジナルメンバーです。

レコードデビューして、しばらくはこのメンバーでしたが、アメリカ国籍のケネス伊藤がベトナム戦争で召集され、代わりにキーボードとして加入したのが、後に「ゴダイゴ」を結成するミッキー吉野です。
さらにドラム&ボーカルのアイ高野が加わり、マモル・マヌーさんはボーカルに専念することになります。

またベース、ボーカルとして柳ジョージが参加したこともあり、ザ・ゴールデン・カップスは数々のスーパースターを輩出したスーパーグループとなりました。
 

何か違う

ザ・ゴールデン・カップスは、時代の流れでGSバンドのひとつとしてデビューしましたが、もとは生粋のリズム&ブルース、ブルースのバンドです。

メジャーデビューであてがわれた曲は、なかにし礼・鈴木邦彦コンビによる「愛しのジザベル」。
歌謡曲だと適当にこなしていたらスマッシュヒットを飛ばし、この路線で「愛する君に」「本牧ブルース」と立て続けにヒットソングが生まれました。

大ヒットになるのが「長い髪の少女」。デイヴ平尾に替わりリードボーカルを担当したのがマモル・マヌーさんです。

当時のGSバンドには、目指す音楽性とヒット曲の間に違和感を抱くグループがあり、まさにザ・ゴールデン・カップスはその代表です。
バンドは1972年1月に解散するものの、その後何度か再結成を繰り返しています。
 

やりたい事はB面で

では、どんな曲がやりたかったのでしょうか?
前述の「長い髪の少女」のB面に収録された「ジス・バッド・ガール」がそれに当たります。ケネス伊藤の作詞、ルイズルイス加部の作曲と、バンドの自作曲です。

ファズの割れた音で弾きまくるエディ蕃。唸るベースラインを披露するルイズルイス加部。そしてマモル・マヌーのドラムスも歌謡曲とはまるで異なるグルーヴを奏でています。

「最初にこの曲を聴いた時は、てっきりカバーだと思ったんですよ。アメリカの曲なんだろうなと思ってたのが、オリジナルだと聞いてびっくりしたわけです」と振り返る小堀勝啓。
 

実は小堀も大好き

当時、東京の音楽・アート関係者は、夕食後、横浜にゴールデン・カップスの演奏を聞きに行くというのが定番だったそうです。
ゴールデン・カップスは演奏技術も超一流で玄人受けするバンドだったようです。

小堀「それだけにゴールデン・カップスにしてみると『長い髪の少女』の大ヒットは自分たちにとって大きな足跡にはなるんだけども、何かちょっと違うなぁ、という部分がずっと付きまとったのかなと思います」

また、ブルーコメッツで「ブルー・シャトウ」がヒットした後の井上大輔さんや、「学生街の喫茶店」がヒットした後のガロにも同じような違和感があったのでは?と推測しました。

小堀「ゴールデン・カップス、マモル・マヌーさんが亡くなられましたが、もう1回スポットが当たるといいなーっていうグループです。実は、結構レア盤を持ってまして、好きなんですよ」 
(尾関)
 
小堀勝啓の新栄トークジャンボリー
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2020年09月13日11時03分~抜粋

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