小堀勝啓の新栄トークジャンボリー

追悼・浅野孝已さん ゴダイゴへ辿り着くまでの壮大な旅

5月12日、ゴダイゴのメンバーとして活躍したギタリストの浅野孝已さんが亡くなられました(享年68)。

5月17日『小堀勝啓の新栄トークジャンボリー』では、パーソナリティの小堀勝啓が浅野さんのエピソードを紹介しました。
浅野さんがゴダイゴに加入するまでの間、相当な紆余曲折があったようです。

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小堀とは同世代

亡くなった浅野さんは68歳でした。

小堀「僕と1歳違い。浅野さんが一つ下の同世代なんで、ええ?と思いました」

ゴダイゴのメンバーは、キーボードのミッキー吉野さんを中心に、ボーカルがタケカワユキヒデさん。ベース、スティーヴ・フォックスさん。ドラムス、トミー・スナイダーさん。そしてギタリストが浅野さん。

浅野さんの弟、浅野良治さんが一時、ゴダイゴのドラマーだったこともあったそうです。

実は浅野さん、ギターやバッキングボーカルもさることながら、アルバムジャケットや衣装などゴダイゴのビジュアル面も担当されていました。
 

AORの幕開け

ゴダイゴは1976年、「僕のサラダガール」でデビュー。テレビCMに使用されヒットしました。

小堀「あまりにも普通の曲で、つるんと聴いてしまった人が多いと思いますけど、これは聴いた時に、間奏のウエストコーストの雰囲気のギターソロにびっくりしました」

当時の日本では、イーグルスなどのウエストコーストサウンドがまだ理解されていなかった時代。

小堀「これがずーっと後にAOR(アダルト・オリエンテッド・ロック)になっていくあの時代の幕開けの曲として、なんてすごいギターを弾く人なんだろうと思いました」

そんな浅野さんのギターはどのように確立されていったのか、ここから紐解いていきました。
 

両極端なジュニアバンド

中学生時代の浅野さんは、同じ聖橋学園の高等部にいた萩原健一さんと仲良くなったそうです。
当時の萩原さんはテンプターズに所属。誘われてライブを観に行ってみると、そのカッコよさに驚いたそうです。
やがてテンプターズで使わなくなったギターを貰ってプレイヤーへの第一歩を歩みます。

友人の大口広司さんと浅野さんは、ジュニア・テンプターズというバンドを結成。しかし大口さんはテンプターズに正式加入します。

小堀「バンドも空中分解かなーと思ったりしてるうちに、学校の先輩、モップスの星勝さんが声をかけて来ました。この人、どういう人脈持ってるの?モップスですよ、みなさん」

モップスはテンプターズと同じグループサウンズと括られるバンドですが、その音楽性は異質でした。「日本最初のサイケデリック・サウンド」と銘打たれ、アングラ、ヒッピーを意識したスタイルでした。

浅野さんはジュニア・テンプターズに続きジュニア・モップスを結成。これを期に高校も中退して16歳でプロのギタリストになりました。
 

ミッキー吉野も一目置く存在

小堀「普通好きなだけでなれませんよ。僕だって高校時代、バンドやってましたけど、当然プロになるようなものではなかった。テンプターズの『神様お願い』とかカッコいい曲を練習して、少年・浅野孝已さんは高みに向かって行ったんだなぁと思います」

プロになった浅野さんに注目していたのが、元ザ・ゴールデン・カップスのメンバーで、後にゴダイゴの同志となるミッキー吉野さん。

浅野さんは当時最先端のソフルサウンドを聴かせていた伝説のバンド「The M」(エム)に在籍していました。
浅野さんに一目置いていた吉野さんは、いずれは一緒に…と考えていたそうですが、バークリー音楽院に留学するためアメリカに向かいます。
 

運命のいたずら

吉野さんは帰国後、すぐに浅野さんに一緒に組みたいと声をかけます。
しかし浅野さんは「チャコとヘルスエンジェル」というバンドでメジャーデビューしたばかり、という運命のいたずら。

小堀「インチキくさい名前なんですけど、アイドルロックみたいな感じでちょっと人気あったんですよ」

「チャコとヘルスエンジェル」は、15歳の「チャコ」こと田中まさゆきさんをリードボーカルに据えたアイドルグループとして、若い女性の人気を集めていました。
その一方で高度な演奏テクニックを持ったバンドでもあり、中でも浅野さんのギターはうるさい洋楽ファンにも注目されていました。
 

急遽呼ばれて

早く浅野さんと演奏したい吉野さんですが、プロダクションやレコード会社の縛りもあり、引き込むのをためらったようです。

そして吉野さんはスティーヴ・フォックスさんと「ミッキー吉野グループ」を結成。タケカワユキヒデさんのバックバンドとして活動を開始しました。

タケカワさんのコンサートツアー最終日前日、ギターが急にいなくなり、吉野さんは浅野さんに声を掛けました。引き受けた浅野さんは、なんと20曲近いレパートリーをたった一日で覚えてきたそうです。

幸か不幸か「チャコとヘルスエンジェル」は1年半の短命で解散。浅野さんは、そのままミッキー吉野グループへ加入。さらにタケカワさんも引き入れてゴダイゴへと発展します。

その時、タケカワさんがミッキー吉野グループをバックに制作していたセカンドソロアルバムは、そのままゴダイゴのファーストアルバム『GODIEGO(ゴダイゴ:新創世紀)』としてリリースされました。1976年(昭和51年)のことです。
 

最初のロックはゴダイゴ

吉野さんと出会ってから、壮大な旅を経て、一緒に活動することになった浅野さん。
さながら、ゴダイゴが音楽を担当したテレビドラマ『西遊記』のようです。

その後ゴダイゴは「ガンダーラ」「モンキー・マジック」「銀河鉄道999」など数々のヒット曲をリリース。
1980年(昭和55年)には中国天津で開催された『第一回中日友好音楽祭』に出演しました。

当時の中国は文化的に全く閉ざされており、ロックなど海外の楽曲は知られていませんでした。この時の演奏の模様は『中国 后醍醐』として音盤化されています。このLPレコードの帯には「ロックが中国に入った日」というコピーが書かれていました。

そして浅野さんは音楽活動と並行して、ギター、アンプ、エフェクターなどの商品開発にも関わっていました。グレコギターのGOシリーズとブギーは有名です。
 

不思議な縁

浅野さんが若い人にギターを教える番組の中で、ショッキング・ブルーの「ヴィーナス」がカッティングの勉強になると教える場面があるんだとか。
ショッキングブルーはオランダ出身のロックバンド。「ヴィーナス」は1969年に発売されたシングルで、世界的なヒットになりました。

小堀「ショッキング・ブルー日本公演。実は小堀、アマチュアながら、来日公演のMCをした思い出もあります。
なんかいろんなことが繋がっていくなあと思いながら胸が熱くなりました。浅野さんの残してくれた音楽は不滅です。ご冥福お祈りします」
(尾関) 
 
小堀勝啓の新栄トークジャンボリー
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2020年05月17日08時23分~抜粋

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