精神科医でシンガーソングライターの北山修さんが、8月11日放送の『小堀勝啓の新栄トークジャンボリー』に出演しました。
ザ・フォーク・クルセダーズでデビューした北山さん、現在は大学教授としての顔も持っています。
北山修「半分死んでることを自覚しろ」あの時代の熱い叫び
北山修と音楽
小堀「僕らは一番最初に北山修っていう名前に触れたのはフォーク・クルセダーズ。そこからもう半世紀。髪の色が違うだけで、ほとんど変わらなさが凄いですね」
北山「相変わらず内面はこどもだし、未熟だし、まだ何を考えてんのかわからない部分もあるしね」
北山さんは2010年春まで九州大学大学院人間環境学研究院・医学研究院教授。現在は九州大学名誉教授、国際基督教大学客員教授などを勤めています。そんな責任ある立場なので、歌う時は顔が出ないようにしているんだとか。
北山「私にとって音楽は宝物だし、私の精神衛生を保ってくれるようなものでしょ?
これが仕事になってしまうと、私の捌け口というか私の癒しがなくなるので、それを守るのにずいぶん苦労したと思いますね」
北山「相変わらず内面はこどもだし、未熟だし、まだ何を考えてんのかわからない部分もあるしね」
北山さんは2010年春まで九州大学大学院人間環境学研究院・医学研究院教授。現在は九州大学名誉教授、国際基督教大学客員教授などを勤めています。そんな責任ある立場なので、歌う時は顔が出ないようにしているんだとか。
北山「私にとって音楽は宝物だし、私の精神衛生を保ってくれるようなものでしょ?
これが仕事になってしまうと、私の捌け口というか私の癒しがなくなるので、それを守るのにずいぶん苦労したと思いますね」
時代と連動した「帰って来たヨッパライ」
フォーク・クルセダーズは北山さんたちが学生の頃、遊びで始めたバンドです。
1967年(昭和42年)、その解散記念に作った自主制作アルバム『ハレンチ』収録の「帰って来たヨッパライ」が注目され大ヒットになりました。
北山「私たちがやりたくて作った物が、たまたま売れてしまって。この売れたという騒ぎから自分たちのやりたいことを守るために、ずーっと苦労してきたということが、過去50年間にはありますね」
当時は学生運動が盛んでした。大学には、学生のための文化、娯楽、主張が渦巻いていたと言います。
それらのバックグラウンドミュージックのようにしてフォークソングがあったそうです。
北山「だから、時代と連動していましたよ」
小堀「そしてあの時代の熱量が、あのナンセンスさを後押ししていた」
1967年(昭和42年)、その解散記念に作った自主制作アルバム『ハレンチ』収録の「帰って来たヨッパライ」が注目され大ヒットになりました。
北山「私たちがやりたくて作った物が、たまたま売れてしまって。この売れたという騒ぎから自分たちのやりたいことを守るために、ずーっと苦労してきたということが、過去50年間にはありますね」
当時は学生運動が盛んでした。大学には、学生のための文化、娯楽、主張が渦巻いていたと言います。
それらのバックグラウンドミュージックのようにしてフォークソングがあったそうです。
北山「だから、時代と連動していましたよ」
小堀「そしてあの時代の熱量が、あのナンセンスさを後押ししていた」
人生と歌の関係
小堀「フォーク・クルセダーズの楽曲には仕掛けが山のようにあって、世間をシニカルに笑っていたりとか凄くインテリな部分もありました」
北山「芸能だとか音楽とかって、馬鹿になるっていう面が強調されるけれども、ものすごく考えて、考えながら歌っていた。フォークソングってそういうところがある。やっぱり"歌のための人生"ではなくて、"人生のための歌"だ、みたいな意識があったから」
その実践が常にテーマだったという北山さん、「歌のために人生を失ってたまるか、みたいなね」と続けます。
北山「芸能だとか音楽とかって、馬鹿になるっていう面が強調されるけれども、ものすごく考えて、考えながら歌っていた。フォークソングってそういうところがある。やっぱり"歌のための人生"ではなくて、"人生のための歌"だ、みたいな意識があったから」
その実践が常にテーマだったという北山さん、「歌のために人生を失ってたまるか、みたいなね」と続けます。
世代の対立
1960年代の青春は、学生運動やビートルズやフォークソングを抜きにしては語れないそうです。それらが漫然一体となった時代だったそうで…。
北山「みんな、結構本も読んでたし、それでいて外国の影響を受けながら、日本のことも忘れなかったと思う。いまこの状況は若い人たちにとってどうなのかな、と思うことがあるけど…。当時はとにかく人数が多かった」
小堀「しかも、いつも大人に対して怒っていたじゃないですか」
若者が、大人に対して主張があり、抗議していた時代でした。
北山「『戦争を知らない子供たち』を作った時の思いなんだけれども、戦争を知ってる世代がね、『お前たちは戦争も知らないくせに、そんな偉そうなことを言うな』と押さえつけにかかっていたと思うんですよね」
「戦争を知らない子供たち」は北山さん作詞、杉田次郎さん作曲でジローズが歌って1970年(昭和45年)に大ヒットしました。
北山「『帰って来たヨッパライ』の歌詞の中の神様みたいな父親像があって、『お前ら、そんな甘いもんやおまへんで』って。それに対して『俺たち戦争は知らないよ、何が悪いねん』みたいな感じで対決してましたね」
北山「みんな、結構本も読んでたし、それでいて外国の影響を受けながら、日本のことも忘れなかったと思う。いまこの状況は若い人たちにとってどうなのかな、と思うことがあるけど…。当時はとにかく人数が多かった」
小堀「しかも、いつも大人に対して怒っていたじゃないですか」
若者が、大人に対して主張があり、抗議していた時代でした。
北山「『戦争を知らない子供たち』を作った時の思いなんだけれども、戦争を知ってる世代がね、『お前たちは戦争も知らないくせに、そんな偉そうなことを言うな』と押さえつけにかかっていたと思うんですよね」
「戦争を知らない子供たち」は北山さん作詞、杉田次郎さん作曲でジローズが歌って1970年(昭和45年)に大ヒットしました。
北山「『帰って来たヨッパライ』の歌詞の中の神様みたいな父親像があって、『お前ら、そんな甘いもんやおまへんで』って。それに対して『俺たち戦争は知らないよ、何が悪いねん』みたいな感じで対決してましたね」
軟弱で悪いか?
小堀「戦争を知らない子供たちに対して、戦争を知らないくせにって言ってた大人がいたけど、知らなくてよかったじゃないですか。知ってて大変だったじゃないですかと僕たちは言えたし」
北山「知ってる人たちは偉そうに、苦労したことを前面に押し出して、お前たちは知らないくせに、って言うんですよ。
でも、あなたたちはビートルズを知らないし、フォークソングも知らないし、私たちの歌も知らないんでしょう?」
何も知らないっていうことや、あるいは未熟であること、軟弱であることもすごく大事なことだったと思うね。
僕の歌を聞いていただければわかるけども、奇麗な夕陽がとか、青空が好きでとか、ものすごく軟弱なんですよね(笑)」
小堀の世代は、それに拍手喝采だったそうです。
北山「知ってる人たちは偉そうに、苦労したことを前面に押し出して、お前たちは知らないくせに、って言うんですよ。
でも、あなたたちはビートルズを知らないし、フォークソングも知らないし、私たちの歌も知らないんでしょう?」
何も知らないっていうことや、あるいは未熟であること、軟弱であることもすごく大事なことだったと思うね。
僕の歌を聞いていただければわかるけども、奇麗な夕陽がとか、青空が好きでとか、ものすごく軟弱なんですよね(笑)」
小堀の世代は、それに拍手喝采だったそうです。
言っちゃいけないことを言った
当時語るどんどんヒートアップしていく北山さん。
「父親的な意味があることが大事、生産性だけが大事、勝つことが大事、そんなことだけじゃない。負けることや逃げること、無意味であることや生産性がないこと、それこそ、私たちの主張だったんだと思う」
だからこそ「帰って来たヨッパライ」のあのナンセンスな出だしから入るところが支持されたのではないかと分析する北山さん。
「だって、みんな、ほとんど死んでるじゃないですか。生きてるフリしてるけど。ほとんどの人間たちがクスリの世話になり、ほとんどの人間たちが医者の世話になって、ようやく今日を生きてるんだと思うんだよね。それを偉そうに、生きてるようなフリしてね。
半分、棺桶に片足突っ込んで生きてる、それを自覚するのは大事なことだ、みたいな。僕は、それで『オラは死んじまっただ~』の歌詞が、本当は言っちゃいけないことを言ってしまったんだと思うね」
熱すぎる1960年代の青春、いまも大人に主張する若者のままの北山さんと小堀のトークは、このあとも続いたのでした。
(尾関)
「父親的な意味があることが大事、生産性だけが大事、勝つことが大事、そんなことだけじゃない。負けることや逃げること、無意味であることや生産性がないこと、それこそ、私たちの主張だったんだと思う」
だからこそ「帰って来たヨッパライ」のあのナンセンスな出だしから入るところが支持されたのではないかと分析する北山さん。
「だって、みんな、ほとんど死んでるじゃないですか。生きてるフリしてるけど。ほとんどの人間たちがクスリの世話になり、ほとんどの人間たちが医者の世話になって、ようやく今日を生きてるんだと思うんだよね。それを偉そうに、生きてるようなフリしてね。
半分、棺桶に片足突っ込んで生きてる、それを自覚するのは大事なことだ、みたいな。僕は、それで『オラは死んじまっただ~』の歌詞が、本当は言っちゃいけないことを言ってしまったんだと思うね」
熱すぎる1960年代の青春、いまも大人に主張する若者のままの北山さんと小堀のトークは、このあとも続いたのでした。
(尾関)
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