2017年8月30日(水)

大谷ノブ彦、エレファントカシマシを語る(後編・再混迷期から再復活へ)

大谷ノブ彦のキスころ / エンタメ

ロックバンド・エレファントカシマシ(エレカシ)と、パーソナリティーのお笑い芸人・ダイノジ大谷ノブ彦の人生がリンクしているというお話。
“前編”では、芸人を辞めようと思っていた大谷と、メジャー契約を切られたものの見事復活したエレカシのところまでお伝えしました。

その復活の様子をライブを通じてまざまざと見せつけられた大谷は、勇気をもらい、芸人を続けることにしたのです。

路線変更で大ブレイク

1996年4月にリリースされた、かつてのエレカシとは違う前向きな内容の曲『悲しみの果て』は、チョコレートのCMソングに起用され、スマッシュヒットとなりました。これでエレカシの名は一気に広がりました。

エピック・ソニーとの契約が切れたことで、もうわがままなアルバムは作らないと思った宮本は、8作目のアルバム『ココロに花を』を制作するにあたり、外部からプロデューサーを迎えることにしました。
それが、今は亡き佐久間正英氏。あの、BOØWYやJUDY AND MARY、GLAYなど、様々なアーティストを売り出してきた人物です。

そうして出来上がった、ソフトで洗練された曲を試聴しながら街を歩いていたエレカシ・宮本浩次は、思わず「違う!何でこんな音なんだ!」と言ってウォークマンを叩きつけて破壊したという、いかにも宮本らしいエピソードがあります。

そんな過去の自分とのギャップに苦しみながら生まれた『ココロに花を』は、10万枚のスマッシュヒットとなりました。

そして翌1997年7月。フジテレビ系ドラマ『月の輝く夜だから』の主題歌、『今宵の月のように』が80万枚を超える大ヒット。
同曲を収録した9作目のアルバム『明日に向かって走れ―月夜の歌―』は50万枚と、どちらもエレカシ史上最高のセールスを記録し、格段に知名度を上げたのでした。

一方この頃の大谷は、芸人を続けてはみたものの、鳴かず飛ばず。テレビには呼ばれない、ネタを披露する劇場も無くなる…。活動の場がだんだん無くなっていくのでした。

再び混迷期へ

ところが1999年。デビュー間もない宇多田ヒカルが音楽界を席巻している頃。
東芝EMIに移籍したエレカシは再び迷走を始めます。

それまでのポップな路線から、初期の荒々しいサウンドに戻り、歌唱せずほぼ語り倒すだけのシングル『ガストロンジャー』をリリース。

2000年には、ほとんど宮本1人で打ち込みによって音を作るという、ソロアーティストのような作業を行ない、11作目のアルバム『good morning』を発表。バンド感を排除したようなこの行動は波紋を呼びました。
ちなみにこの作品のジャケットデザインは、宮本がポルシェに乗っているもので、大谷はかなり違和感を覚えたと言います。
「宮本さんといえば、東京の神保町とか武蔵野でタバコ吸いながら散歩してるイメージだったのに。女優と付き合ってるみたいな報道があったり、何だかもう違うとこへ行っちゃったなあみたいな感じ」

かと思えば、サザンオールスターズやミスターチルドレンでおなじみの小林武史氏をプロデューサーに迎え、2001年にシングル『暑中見舞―憂鬱な午後―』、2002年に12作目のアルバム『ライフ』を発表。しかし売り上げはパッとせず。

一方大谷は1999年、仕事がうまくいかない上に失恋も重なり、芸人を辞めたいモードに入っていたところ、初めてオーディションに引っ掛かりました。
日本テレビ系バラエティ『雷波少年』の「後ろ楽しいガーデン」という企画で、天使の格好をして白塗りで全身白タイツ姿となり、後楽園ゆうえんち(当時)で来場者のカップル成立を手伝うというもの。

やがて、同年スタートしたNHKの『爆笑オンエアバトル』にちょくちょく呼んでもらえるようになり、ダイノジの知名度が一気に上がっていったのでした。
その後すっかりイケイケ状態となり、全国ライブツアーを開催するようになったダイノジ。
2002年にはCBCラジオでキスころの前身番組『ダイノジのキスで殺してくれないか』が始まったり、M―1グランプリで決勝進出したりと、売れっ子への階段を上りかけていました。

再び復活へ

ところが、M―1で思いっきり滑り、一気に階段を転げ落ちるダイノジ。それまで調子に乗っていた彼らをよく思っていない人たちが、ここぞとばかりに見放します。翌2003年は仕事を干され、かわいがっていた後輩は離れていく。

片やエレカシは2002年、初のミニアルバム『DEAD OR ALIVE』でシンプルなバンドサウンドに原点回帰します。
そして2003年から始めたのが、BRAHMAN(ブラフマン)やRIZE(ライズ)など、人気若手バンドとの対バンライブ。
「しかし当然ながらエレカシは若手に負けていた」と、そのライブを観に行った大谷は語ります。旬なバンドの勢いと、身体能力には勝てません。

それでも自分たちのサウンドを見つけようと必死にもがき、対バンに何度も挑戦するエレカシ。
その年の「ロック・イン・ジャパン・フェス」では、ほとんど歌詞のついてない曲をいきなり歌い出します。
「トゥラルレルララ~レリシィ~♪」と意味不明な“仮歌詞”に、戸惑う観客。
しかしそれは、「エレカシにしか表せられないパッションがパッケージされている」と大谷が評します。もがいてもがいて、形になったのがそれだと。

ちなみにこの曲は2004年、正式に歌詞が作られ『歴史』というタイトルで、15枚目のアルバム『扉』に収録されることになります。

そんなもがきを続けているうちに、ドラゴンアッシュ等他のアーティストから「エレカシのライブを観て感動した」というコメントがポツポツと出てくるようになってきました。
負けても逃げずに続けた若手バンドとの交流が、実を結び始めたのです。

その後2007年、ユニバーサルミュージックに移籍して第一弾シングル『俺たちの明日』をリリース。ウコン飲料のCMで有名ですね。
途中、宮本が感音性難聴になる等の障害を乗り越えつつ、タイアップの付く曲も増え、来年はいよいよデビュー30周年を迎えるエレカシ。

もがけば必ず役に立つ

彼らのもがく姿を目に焼き付けた大谷。新しいエンターテイメントとなるのを確信して2005年末にDJを始めます。DJ側・芸人側両方の批判を浴びても強い信念を持ち続けました。
やがてDJ活動の一環でダイノジ・大地洋輔がエアギターを披露していたのを関係者が見かけ、エアギターの大会に誘われ出てみたら日本一、世界一を獲得。

プライドを捨てて若手芸人と一緒に「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」のオーディションを受け続け、それがきっかけで2010年『めちゃイケ』の新メンバーオーディションの予選に呼ばれ、昔バカリズムに「大地さん、パンツ一丁姿だけで『R―1』チャンピオンですよ」と言われたのを思い出し、それで爆笑をかっさらうダイノジ。
ネタ切れになったが、その数日前、動員数最低だったライブでムチャブリで生まれた一発ギャグを思い出し、起死回生で予選を通り、めちゃイケに出演。

もがけば全てが糧になるというエレカシの教えが、ダイノジにも生きたのでした。
これからもエレカシはもがきながら前に進んで、我々を勇気付けてくれることでしょう。
(岡戸孝宏)

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