10月23日放送の『ドラ魂キング』(CBCラジオ)、この日のゲストは元中日ドラゴンズの今中慎二さん。
「ドラゴンズスペシャル」のコーナーでは、インターネット上の百科事典サービス「Wikipedia(ウィキペディア)」でご本人に関する記載を紹介し、そこに書かれている内容を検証しました。
この日はドラフト会議の前日。今中さんの「その頃」を振り返ります。
Wikipediaを検証!
以下、フリー百科事典『Wikipedia(ウィキペディア)』「今中慎二」からの引用です。
「3年夏の大阪府大会では15個の三振を奪いながら延長戦の末に初戦で敗退し、甲子園に出場することはなかった。
漫然と大学への進学を予定していたが、球速145 km/hの速球などによって全球団のスカウトが来校するほど高い注目を集めており、1988年度ドラフト会議で中日ドラゴンズから1位指名を受けた。
担当スカウトは法元秀明で、契約金と年俸それぞれ6000万円、480万円(いずれも推定)で入団契約を結んでいる。同期には、バッテリーを組んでいた桐山明佳がいる」
「なんか間違いが多いな」
この記事を安藤渚七が読み上げた途端、「なんか間違いが多いな」とこぼす今中さん。
まずは「大学進学」の部分。今中さんは大学進学を希望していたものの、実際は「日本生命」に内定していたそうです。
そして担当スカウトは「法元秀明さん」ではなく「中田宗男さん」。今中さんは「怒られますよ、中田さんに」とクレームをつけます。
「契約金6000万円」についても、「あー違うな」と即座に否定。
「数字、wikiに書き直しますか?」と宮部和裕アナウンサーが尋ねましたが、「いやいい、このままにしておいて(笑)。このままでいいよ」と今中さん。
本当の金額は秘密のベールに包まれたままとなりました。
ドラフト直前は何してた?
この中で今中さんに特に尋ねたいポイントは、やはり時節柄「ドラフト会議」の部分です。
Wikipediaでは「1988年度ドラフト会議で中日ドラゴンズから1位指名を受けた」の一文のみですが、この裏側ではどんなことが起こっていたのでしょうか?
「当日、どんな気持ちで待っていましたか?」という質問に、「これがねぇ…そんなにドキドキも何もしなかったんですよね」と振り返る今中さん。
当時のドラフトは夕方ではなく、お昼前の時間帯。その日、今中さんは授業を抜け出して保健室で休んでいたそうです。
安藤「体調が?」
宮部「ドキドキで?」
今中「ドキドキいうか、授業なんてそんな集中できるわけないしさ」
「そろそろ始まるぞ」と保健室に先生が呼びに来たタイミングで、「はーい」と顔を洗って会場に向かった今中さん。
シャッター音しか聞こえなかった
宮部「指名を受けた直後の喜びで覚えていることを教えてください」
今中「名前を呼ばれた時は、シャッター音しか聞こえんかったからね」
1988年、大阪の高校生でドラフトにかかったのは今中さんだけということもあり、大阪のメディアがかなり多かったことを覚えているそうです。
宮部「甲子園の夢は果たせずも、高校でドラ1を勝ち取る、選ばれる」
安藤「全球団のスカウトですもの」
しかし当時、フラッシュの中で話したことは全く覚えてないと言います。
今中「だって、ドラゴンズが指名するものだと思ってたから」
「ドラゴンズが絶対指名してくれる」。こんな確証を持っていたという今中さん。
「勝手に逆指名」の裏側
今中「一丁前に逆指名してますからね、大阪ではね。勝手に逆指名とか言って、生意気にドラゴンズとか言ってたんすよ。『他は行きたくないから』っつって。中田さんが『そうやってやれ』って言ってたんすよ。『絶対指名するから断れ』って言うから」
これは今だから聞ける超裏話かもしれません。
ここで続いての質問です。
「前日はどんな心境だったか覚えていますか?」
今中「当日がそんなもんやからね。前日は何してたんやろね。どっか行ってる、たぶん。家にいなかったと思う」
高2の時に母を亡くした今中さん。当時は父と兄、祖母の4人暮らしで、ドラフトについては誰とも会話をしていなかったと言います。
家族で揉めたドラフト秘話
その理由について「三者三様で勝手なことで」と今中さん。
お父さんは「どの球団でも行け」というタイプ。
お兄さんも今中さんとは別の意見があり、進路の話になるとケンカになることから、家族とは食事も別にして会話をしないようにしていたのだそう。
今中「自分がいない時に他の球団のスカウトが家に電話してきたのを、『断れ』って言ってんのに親父は『指名されたら行きます』ぐらいなことを言っとったらしい、裏で。で、揉めるわけですよ(笑)」
ドラフトにまつわる、今中さんの知られざるエピソードでした。
(minto)
ドラ魂キング
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2024年10月23日18時28分~抜粋