ドラ魂キング

元中日ドラゴンスの小松辰雄、昭和のドラフト会議を振り返る

10月13日放送のCBCラジオ『ドラ魂キング』に、元中日ドラゴンズ投手で野球解説者の小松辰雄さんが出演し、1977年(昭和52年)に入団した当時のドラフトを振り返りました。

昭和のドラフトの雰囲気を、小松さんと高田寛之アナウンサーからレクチャーされる三浦優奈。
当時のドラフトはいろんなドラマがありました。

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絶対1位だと思っていた

今年のプロ野球ドラフト会議はいよいよ20日に開催されます。
近年のドラフト会議はテレビ中継もあり一種のお祭りですが、小松さんが入団した当時のドラフト会議はどうだったのでしょう。

小松「今はドラマがないね。我々の頃はドラマがいっぱいあったけどね」

現在は、入団を希望する選手が球団を指名する「逆指名制度」も廃止され、選手が憧れの球団を指名することができなくなっています。

小松辰雄さんは1977年(昭和52年)のドラフトで入団しました。当時、ドラゴンズの1位指名は藤沢公也さんで、小松さんは2位でした。

当時は会場からの生中継もなく、小松さんは高校で授業を受けていたそうで、ドラゴンズから指名があったことをどうやって聞いたのかすら、あまり記憶にないそうです。

小松「2位だって聞いて頭に来たのは覚えてるんだけど」

小松さんは2年生エースで、夏の甲子園ベスト4の選手。2年生の時から剛速球は注目されており、小松さん自身も絶対1位だと思っていたそうです。

お世辞だと分かっていた

1977年のドラフト会議で小松さん以上に注目されていたのが、法政大学の江川卓さん。

小松「クラウンライターの浦田さんってスカウトと食事に行ってね、『うちが一番くじ引いたら江川君に行かずに、君に行くかもわからないから』って、そこまで言ってくれたんだよ」

高田「そこは小松辰雄だったかもしれなかったんですか!」

小松「いや、それは、お世辞だとわかってた。あの時は江川さんがナンバー1だから。案の定、クラウンが一番くじ引いて江川さんに行ったんだよね」

クラウンライターライオンズは、現在の埼玉西武ライオンズの前身球団で、当時の本拠地は福岡県でした。

高田「これが後に、世間を揺るがした『空白の一日事件』を1年後に産むわけですよ」

三浦「なんですか?『空白の一日事件』って」

三浦優奈は1993年(平成5年)生まれ。
昭和のおじさん2人が、1978年(昭和53年)に起きた「空白の一日事件」をレクチャーしました。

ドラフトルールの隙間

ドラフト指名された選手は、次の年のドラフトの前々日までに契約しなければならない、というルールがあります。

1977年にクラウンライターは江川さんを指名しました。
しかし、江川さんはクラウンライターに行くつもりがなかったので、翌年の1978年のドラフトの前々日までにクラウンライターは契約できませんでした。

その結果、1978年のドラフトが始まる前日が空きます。

小松「1日だけ空いてるわけ。そこが『空白の一日』なんだよね」

高田「その日に巨人と契約してしまうという荒業に出たんです」

三浦「そ、それ、OKなんですか?」

小松「ダメ!」

高田「今の総理大臣交代という以上に騒いでましたよね」

当時の世間がどれほど江川投手に注目していたかがわかります。

強い要望で巨人入り

小松「次の日のドラフトをジャイアンツがボイコットしたんだよね」

江川さんと巨人の契約を、当時のセ・リーグ会長が無効と判断。これに反発した巨人は翌日のドラフトをボイコットしました。

結局1978年のドラフトでは、阪神が江川さんを1位指名し契約します。
その後、巨人と阪神のトレードで、江川さんが巨人に、小林繁さんが阪神に行きました。

小松「コミッショナーのお願いだね」

高田「『強い要望』っていう言葉が当時流行りましたよね。50年前の話です」

小松「巨人のエースだった小林さんとトレードしたわけ」

三浦「小林さんの気持ちも大変ですよね」

小林さんの気持ちを慮る三浦です。

小松「小林さんは、あの時、宮崎キャンプに行く時の空港で呼ばれたんだよね」

「へっ」あまりの衝撃に思わず変な声を出す三浦です。

小松「そこで江川君とトレードだってなっちゃったの」

「ええ~っ!」とさらに衝撃を受ける三浦。
小林さんは阪神に移籍した翌年、22勝を挙げました。

田舎の野球少年の気持ち

話は小松さんのドラフトに戻ります。
石川県の野球少年だった小松さんが入団を希望していたのは巨人だったんだとか。

小松「ジャイアンツファンだったしね。あの頃の田舎はジャイアンツ対どっかのチームだからね」

高田「テレビはそれしか映らなかったんだよ」

三浦「す、すごい時代ですよね」

巨人戦は毎日のようにテレビで全国中継されていました。
昭和の野球中継事情に、またもや驚く三浦です。

小松「パ・リーグなんてほとんどテレビでやらないから、『パ・リーグだったら行かない』っていう人がいっぱいいたもん」

三浦「あらあ~!」

高田「小松さんは?」

小松「パ・リーグは嫌だなあっていうのはあったんだけど、1位で指名されてたら、たぶん行ったと思う」

「スピードガンの申し子」と呼ばれた小松さん。スピードガンの申し子がパ・リーグで誕生した可能性もあったようです。

6人中、3人が断る

1977年、ドラフト1位だった藤沢公也さんは過去に4回ドラフト指名を断っており、高校時代から通算5回目の指名でした。

小松「それで1位にしたら来るだろうと思って、中日が1位で指名したんだよね」

実は藤沢さんはこの時も断ったのですが、ドラゴンズが1年かけて口説き落としたわけです。

三浦「へ?なにそれ」

高田「昔は結構、拒否する人多かったんですよ」

小松「三沢さんもそういう感じだもんね。そういう人、結構いたよね」

1970年のドラフトで、ドラゴンズに3位指名された三沢淳さん。プロより先に声をかけてくれたのが新日鉄だったという理由でいったん入社します。
その後、都市対抗野球で見事優勝してから、翌年のドラフトが始まる4日前にドラゴンズに入団しました。

小松さんを2位指名した1977年のドラゴンズは、ドラフトで6人指名した中、1位の藤沢さんを含めて3人に拒否されました。
「3人では少ない」ということで、急遽選ばれ、ドラフト外入団したのが平野謙さんでした。

ドラフト外でもドラマがあった

小松「名商大で平野っていう、ちょっと面白いのがいるから、それ取っとけって感じで取っちゃったの」

ドラフト外で入団した平野さんは、現在の育成選手のような扱いでした。
その後レギュラーで活躍し、1982年(昭和57年)のリーグ優勝にも貢献しました。
その後、西武、ロッテと渡り歩く息の長い選手になります。

高田「わからんもんですねえ」

小松「今は断る選手いないもんね」

三浦「来年指名してくれるかもわからないですし。素人目線で断るってすごいなと思っちゃいました」

高田「それを思えば、藤沢さんの5回指名受けるってすごいですね」

20日のドラフト会議ではどんなドラマが生まれるのでしょうか?
(尾関)
 
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2022年10月13日18時16分~抜粋

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