ドラ魂キング

木下雄介投手、最初の背番号を98にした理由とは?

8月3日、中日ドラゴンズのピッチャー木下雄介さんが27歳の若さで急逝しました。

8月9日放送のCBCラジオ『ドラ魂キング』では、ダイノジの大谷ノブ彦がリスナーからのメッセージを紹介しながら、木下さんを偲びました。

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ファンもショック

車を運転中にラジオで一報に接したというリスナーからのメッセージです。

「驚きと悲しみで胸が詰まり、呼吸が苦しくなり、急いで車を停車させました。長年ドラゴンズファンをしていますが、ここ数年で最も期待していた選手が木下雄介投手でした」(Aさん)

大学中退からサラリーマンを経て独立リーグへ進んだ木下投手。育成から支配下登録されました。
怪我をしても諦めず、150キロを超えるストレートと落ちる球で強気に攻める投球スタイルが持ち味でした。

今年の沖縄キャンプでの楽天との練習試合では、ヤンキースにいた田中将大選手にスプリットの投げ方を教わりに行くという貪欲さも見せました。

「エンゼルスの大谷選手とは違う意味で、まるで漫画の主人公みたいでカッコいいじゃありませんか。オープン戦最終戦での故障。それでも不屈の男、木下なら必ずまた戻って来てくれると信じていましたが、まさかこんなことになるなんて…」(Aさん)

 

とことん前向き

大谷「僕も一報を聞いて、本当に言葉がないですよ。その間も日本が金メダルを獲って嬉しいと思いながらも、フッと木下選手のことを思い出して気落ちしたりしてね。

彼の生き方から、僕はいろいろ学ぶこともあるし、個人的には自分が出来なかったことを全部やってくれてるっていうか、挫折を何回しても立ち上がるところとか、自分に置き換えて勇気づけてもらってました」

肩を脱臼した時も、脱臼から復活した選手はまだいないと聞いた時、木下選手は「だったらその一番最初の人になってみよう」と前向きにリハビリに取り組んでいたそうです。
 

ドラゴンズというチーム

2019年、父親が亡くなられた時、登板後に大阪へ葬儀に向かった木下投手の後を追いかけて、チームメイトが駆け付けたこともあったというほど人望が厚かったそうです。

今年4月27日の阪神戦では、同じ苗字の木下拓哉選手がヒーローインタビューを受けました。
その時に着ていたのが木下雄介投手の顔の入ったTシャツ。

大谷「あの時も、選手名鑑に載ってる木下雄介投手の強張った顔マネをするわけよ。その時に、はっ倒された気分になったよね。俺たちまで暗くなっちゃったらダメなんだなあっていうさ」

リハビリに励んでいた木下投手をチームメイトが明るく応援していました。

大谷「中日ドラゴンズっていうチームの内部の空気感みたいなものが、木下投手のエピソードを通じて伝わって来てさ、
だから深刻ぶって、自分がここで何となく悲しいことばっかり言ってしまうのも、なんか違うような気がするんだよね…」
 

98からのスタート

話は遡って木下投手が背番号を与えられる前。
大谷は、木下投手の挫折から這い上がってきたエピソードを知った時に「なんてロックな俺好みの選手なんだろう」と思ったそうです。

支配下になって背番号を与えられる時は、ロックな選手だから69をつけて欲しいとラジオで言いまくっていたところ、若狭アナウンサーが本人に伝えてしまいます。

「いやあ、そんな69じゃなくてもいいです。みたいな感じで軽くいなされちゃって」と恥ずかしそうに振り返る大谷。

その時、木下投手が選んだのは98。背番号が若くなっていくことで、自分がちゃんと結果を出してチームに貢献出来たことを確認したくて、敢えて98からスタートしたそうです。99は既につけている人がいました。

「そういう男なんだよね…」と噛みしめるように言う大谷。
 

ファンとして出来ること

大谷「カミングアウトすると、僕は小学生の時、広島カープファンだったの。机の前に飾ってたのが津田恒美っていう投手のサイン」

津田恒美さんも32歳の若さで亡くなった投手ですが、「弱気は最大の敵」という言葉を遺しているんだそうでです。愛称は「炎のストッパー」。

大谷「自分の心の弱さを跳ね返すように真っすぐ勝負でね。その当時すごく心振るわされたよ、勇気もらったよ。だから木下雄介という投手にずっとシンパシー覚えてた」

大人になった大谷に、再び小学生の頃の気持ちを蘇らせたのが木下投手でした。

大谷「彼は生き抜いたんだ。そう前を向かないと、木下君の発してたメッセージと違うような気がする。彼はまだチームの一員です。後半戦の中日ドラゴンズを応援していくことで、彼への追悼の意味を込めたいなと思いますね」 
(尾関)
 
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2021年08月09日16時00分~抜粋

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