ドラ魂キング

温厚な牛島和彦がキレた自主トレの思い出

野球解説者の牛島和彦さんが、1月27日放送の『ドラ魂キング』(CBCラジオ)に出演し、現役時代のキャンプについて語りました。

中日ドラゴンズでともに現役時代を過ごした彦野利勝さんが、牛島さんについてのエピソードを明かします。

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彦野が語る牛島

彦野利勝さんがドラゴンズに入団した時、3学年しか違わない牛島さんは、すでに一軍のスーパースターだったそうです。
浪商で二年生から甲子園で活躍していた牛島さんは、中学生の彦野少年にとって憧れの存在だったわけです。

中日ドラゴンズが3度目のリーグ優勝を果たした1982年(昭和57年)。
彦野さんは、高校3年でピッチャーを務めていました。春の選抜は2回戦敗退。夏の甲子園は県大会で敗れています。
同じ年、牛島さんはドラゴンズのリリーフエースとして17セーブを挙げ、優勝に貢献。日本シリーズでも活躍しました。
 

カットボールの元祖?

彦野さんは牛島さんから「いいか?若いお前に、ピッチャーはまともなストレートなんか投げないよ」という投手心理を教わっていたんだそうです。

1989年のオールスターゲーム。彦野さんはロッテに移籍していた牛島さんと対決。真っ直ぐを狙っていったら、ショートゴロに倒れました。この件について牛島さんはこう語りました。

牛島「もう手の内は知られてますから、上から目線で失礼ですけど、打たせてあげても良かったんですが。ちょっと僕が動かした球を、カンって打って、ニコッと笑って欲しいなという感じがありましたね。対応できるじゃん、彦野すごくなってきたねえって」

このキュッと曲がるボール、実は今でいうカットボールの元祖なのでは?と言う質問に対してはこんな答え。

牛島「たぶんシュート回転するストレートを見てるバッターの方が多いと思うんですよ。それをシュート回転をさせないだけで、少しだけ逆方向に逃げたように感じると思うんです」

打者の心理を利用して、今のカットボールと同じ効果を狙っていたようです。
 

自主トレの思い出

牛島「昔は合同自主トレだったじゃないですか。プロ1年目の自主トレってものすごい緊張したなと思いますね。ロッテにトレードで行った時には有藤監督の一年目だったんですよ。ものすごいしんどかったですよ」

有藤監督は練習が厳しく、60人ほどの選手のうち半分が自主トレで怪我をしてしまったそうです。雪が積もって、グラウンドが使えない日にアスファルトを10キロぐらい走ったそうです。

これで牛島さんも怪我をしてしまいました。膝とアキレス腱を痛めて、キャンプに間に合わず、半分出られなかったそうです。
 

若い力に感激

球団がグラウンドを開放してくれなかったことがあり、その時は知り合いにオープン前のゴルフ場を借りて自主トレをしたそうです。

芝の上は膝に負担がかからないということで、若い選手も含めて10人以上が参加。みんなで一軒家を借りたそうです。

牛島「面白かったですよ。若い選手に冗談で、『俺が9ホール走る間に18ホール走って来い。俺より遅かったら飯抜き』って言うと、本当に走って来るもんね。
一軍にいると二軍の若い子とか、あんまり見ないじゃないですか。若い力ってすごいと思いましたね」
 

盛り上がってたのは自分だけ?

この合同合宿でのスケジュールは、午前中2時間は走ったり、柔軟体操。昼食後はゴルフ場の工事の迷惑にならないようにキャッチボールだったそうです。

合宿中は自分たちで洗濯。食事は昼は弁当、夜は買ってきたり、知り合いの人が差し入れを持って来てくれたこともあったそうです。夜はあんまり盛り上がり過ぎても自主トレになりません。

牛島「お酒を飲んで盛り上がってたのは僕だけですね」

当時は、ビールを少しと焼酎やブランデーを飲んでいたそうです。もちろん若手に強要はなし。ロッテはキャンプ中でもお酒飲んでも構わないが、人に注ぐなというルールがあったそうです。
 

一度だけ

「自分が飲みたい分だけ飲め。人に注ぎ始めると量が増えるから、自分一人で手酌で飲みなさいという感じでしたね」と、当時のロッテのルールを振り返る牛島さん。

合宿参加者は一番若くて20歳過ぎ。牛島さんは30歳過ぎ。若い選手は賑やかそうですが、キレることはなかったそうです。いつも温厚なイメージの牛島さんですが。

「酒飲んでくだ巻いてるやつに、ちょっとキレたことありますけどね。ケンカし始めたからね、それはアカンやろ、言うて」と一度キレてしまったんだとか。
牛島和彦さんの、興味深い自主トレの話でした。 
(尾関)
 
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2021年01月27日18時14分~抜粋

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