ドラ魂キング

90年代のドラゴンズを支えたファンがいるから今がある

4月20日『ドラ魂キング』は、大谷ノブ彦(ダイノジ)が、清水藍と共にリスナーから寄せられたおたよりを紹介していきました。しかし、いつしか話題は90年代のドラゴンズへ。

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京田と郡司のちょっといい話

「サンドラ(CBCテレビ『サンデードラゴンズ』)で、『あの選手のここが欲しい』というコーナーがありました。
例えばアルモンテのダンディなヒゲとか、ロメロの人前でグローブを投げつけるほど感情を露わにできるところなど。大谷さんならドラゴンズのどの選手の何が欲しいですか?」(Aさん)

大谷「ちらっと見たら京田選手が『郡司選手の選球眼が欲しい』って言ってて。すごくいい話やなぁと思ったんです」

京田選手から見ると、郡司選手は4つ年下。

フォアボールが少ないドラゴンズにあって、郡司選手は抜群の選球眼。京田選手は、年下であろうと良い部分は良いと認めているわけです。
 

女子と野球少年の違い

大谷「清水さんは何かあります?」
清水「いま推してるのが岡田(俊哉)投手なんですね。可愛らしい顔が素敵だなと思うので、あのクリクリお目目が欲しいです」
大谷「いいねぇ。女子っぽいねぇ」

一方の大谷は「石川昂弥選手の長打力が欲しい」と発言。
野球を始めた小学校の頃は、少年野球チームで4番を打っていたそうですが、ホームランは打ったことがなかったんだとか。

大谷「中学校に入った瞬間、自分が2番7番タイプだって気づくんですよ。バントしなきゃ生きていけないタイプ。守備だけちょっといいみたいな、ガッツだけスゲーあるみたいな。
打ってみたいよね、ホームラン。憧れはやっぱ、そっちですね」
 

「俺」好きが高じてドラファンへ

「大谷さんが阪神からFAでドラゴンズに入団するとしたら、投手大谷なら何番。野手大谷なら何番をつけたいですか?今つけてる選手を考慮しなくても大丈夫です」(Bさん)

「なんで、阪神やねん」とまずはツッコむ大谷。

大谷が2004年にドラゴンズのファンになって作った草野球チームの名前が「俺軍」。
単独ライブのタイトルにも「俺ダイノジ」「俺道」と付けた如く「俺」という言葉が好きだそうです。

ドラゴンズファンになったのも「オレ流」の落合博満さんが監督になったことがきっかけ。

大谷「俺軍の時は悩みに悩んで、結局1番付けました。それはやっぱり小学生の時に付けてみたかった背番号だったんです。1がやっぱ未だに憧れるね」

ちなみに昨年の秋、台湾に日本、韓国、そして現地のお笑い芸人が集まり、台湾チームと韓国チームに分かれて試合を行ったそうです。

この時は、1はみんな選ぶだろうと敬遠し、落合監督とビシエド選手が付けてた66にしたそうです。
 

背番号39

大谷「清水さんは、何かかっこいい番号やなぁってあります?」
清水「自分が個人的に好きなのは39。私、初音ミクちゃんがすごい好きなんですよ。なのでミクで39。あと5月生まれだから5とか」
大谷「ミクで39。なるほど。芸名を清水ミクにしてもよかったね」
清水「それはまぁ、ミク様はミク様、私は私で」

ボーカロイドを様付けで呼ぶ清水です。

大谷「39は、阪神の矢野捕手のイメージがすごくある。矢野燿大捕手は90年はドラゴンズだからね」

1991年、中日入団時は背番号2。1995年に入団してきた荒木雅博選手に2を譲るかたちで、翌年からは38に変更しました。

1997年オフに阪神へトレード。1998年から背番号39になりました。90年代、矢野捕手はドラゴンズ、から話題は90年代へ。
 

90年代のドラゴンズ

90年代はひたすらお笑い芸人になることだけを目指していたという大谷ですが、CBC論説室長の北辻利寿が書いた『愛しのドラゴンズ!-ファンとして歩んだ半世紀』(ゆいぽおと刊)を読んだことで、当時のドラゴンズファンに思いを馳せるようになったそうです。

大谷「ドラゴンズファンって、ホント悔しい思いしてるんだね」

91年は広島が優勝し、第一次星野政権終了。この年は2位広島に5ゲーム差をつけて、前半戦を首位で折り返していました。

92年のドラゴンズは最下位。

93年は2位。優勝は野村克也監督が率いたヤクルトでした。
ヤクルトは3チームに負け越していたのですが、横浜に22勝4敗と圧勝。横浜というお得意様がいたから優勝できたわけです。
ドラゴンズはちゃんと3~4チームに勝ち越していたんだとか。
 

10.8は他人事?

大谷「次の1994年はあの10.8ですよ。最終試合で負けちゃったやつ。これはみなさん、悔しい思いをたくさんしたでしょ?」

日本プロ野球史上初の最終戦同率首位決戦、場所はナゴヤ球場、相手は巨人でした。結果は3対6で敗戦。

大谷「あの10.8をまるで他人事みたいに見てたからね。こどもの時から巨人だけ負けりゃあいいやと思ってた。中日、ここで負けるか。名古屋のファンつらいだろうな、と他人事みたいに思ってたから」

この年はパウエルが首位打者、大鵬泰治が本塁打王と打点王、山本昌が最多勝と沢村栄治賞、郭源治が最優秀防御率を獲得。
タイトルではドラゴンズの選手が圧倒しました。

大谷「賞は全部、中日なのよ。悔しいよね。この時、みんなどうやって収めたんだろうとか、そういうことを考えちゃいます」
 

優勝した時のカタルシス

95年にまた5位に転落。

翌96年から第二次星野政権がはじまり、また2位に浮上。

大谷「1年でちゃんと取り返すのがすごいと思うんですよね」

この年は、ナゴヤ球場で行われた最後の試合で、巨人と優勝を争い負けてしまいました。

97年は最下位。チーム内容を見直し、翌98年は2位へ。川上憲伸さんの活躍でチーム防御率は12球団で1位でした。
99年に、ついに11年ぶり5度目のリーグ優勝をしました。

大谷「一回落ちて、また2位になって、そして次の年優勝ですから。90年代は浮き沈みを繰り返して、99年に優勝する。その時のカタルシスはすごかったんやないの?」
 

いじらしいオールドファン

大谷「その場に自分はいなかったけど、90年代のドラゴンズを想像するんですよ。
一個一個浮き沈みがあって、これ悔しいやろなぁとか。
で、ある日、星野さんがいなくなって、急に阪神の監督なったとか言われたら、心の整理つかないでしょ」

1996年から二度目の監督に就いていた星野仙一さんが2001年で引退。その年オフの12月17日に突然、阪神の監督就任の一報が流れ、名古屋に激震が走りました。

大谷「この放送を聴いてる、昔からドラゴンズを応援してる人はそういうのを経験してるのよ。そう考えるといじらしいというか、おらが街の球団としてドラゴンズへの愛を感じるのよ。で、ドラゴンズと共に歩んできた人生なんかも感じちゃうわけさ」

しんみりする大谷ですが、今では球団関係者に物申すほどの熱いドラゴンズファンに成長しました。 
(尾関)
 
ドラ魂キング
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2020年04月20日17時14分~抜粋

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