ドラ魂キング

日本ラグビーの歴史を紐解くと、大躍進の「礎」が見えてきた

ラグビーワールドカップ2019日本大会、日本代表チームは1次リーグの4試合すべてに勝利し、史上初の決勝トーナメント進出を果たしました。

10月16日放送の『ドラ魂キング』、各曜日のパーソナリティーの趣味にフォーカスした「趣味コレ」のコーナーでは、来る10月20日(日)の準々決勝に向けて、宮部和裕アナがラグビー日本代表の歴史を紐解きました。

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日本ラグビー界の名選手・名勝負

現・日本代表の福岡堅樹選手と松島幸太朗選手は、フェラーリのようなスピードで相手チームからトライを奪うことから「ダブルフェラーリ」と呼ばれています。

長い日本ラグビーの歴史を振り返ると、これまでにも名ウイングは数々存在していました。

早稲田大学の名将・大西鉄之祐さんが日本代表監督の時に、「空飛ぶウイング」と呼ばれていたのは、坂田好弘さん。

福岡・松島両選手のようにサイドからパスを受け取り、相手に一旦渡し、その後自分でボールをもらってトライまで決めきる名ウイングとして活躍しました。

当時、ジュニア・ オールブラックス(ニュージーランド)相手に大金星を上げています。

ご存じ松尾雄治さんは、社会人ラグビー「新日鉄釜石」で7連覇を達成した時の中心人物です。

大学ラグビーでの「伝説の試合」として語り継がれているのは、1987年12月6日の「雪の早明戦」。

雪で真っ白になった国立競技場の雪かきから始まり、そこで早稲田大学と明治大学による熱戦が繰り広げられました。

ミスター・ ラグビー平尾誠二

忘れられないのは、「ミスター・ ラグビー」こと平尾誠二さん。

京都・伏見工業高校時代、キャプテンとして全国制覇を果たしました。
伏見工業高校は、テレビドラマ『スクール ウォーズ』(TBS系)のモデルにもなった高校です。

同志社大学では、史上初の大学選手権3連覇を達成。

神戸製鋼では、日本選手権7連覇の中心選手として活躍しました。

日本代表のプレーヤーとしては、1987年の第1回ラグビーワールドカップから3度出場。

その後34歳という若さで、史上最年少の代表監督に就任しました。

しかし、世界的に見ると日本ラグビーは歴史が浅く結果を残すことはできません。

1995年の第3回のワールドカップでは、オールブラックス(ニュージーランド)に、145対17で敗戦。

日本にとってはまさに負の歴史です。

「外国人ばっかりじゃん」の声

歴史的な背景から、ラグビーは「出身国」よりも「所属しているチーム」の代表になることができます。

かつて日本では、ワールドカップの大会ごとに「日本代表っていっても外国人ばっかりじゃん!それでも勝てないの?」という声が噴出していました。

ニュージーランド出身のリーチ・マイケルキャプテンは、かつて札幌山の手高校に留学していました。

トンガ出身のバル・アサエリ愛選手は15歳の来日以来、人生の半分を日本で過ごしています。

ダウンタウンの松っちゃんに似ている、プロップ中島イシレリ選手。

ホンダヒートで活躍している具智元(グ・ジウォン)選手 の父は、韓国ラグビー界のスーパースターです。

どの選手も日本で努力をし活躍をして、日本代表の座を勝ち取っています。

今回の大会で「外国出身の選手ばっかりじゃん」という声を聞かないのは、「それだけ、日本中の人たちが応援しているということ」と宮部アナ。

平尾誠二さんの功績

最年少で日本代表監督となった平尾誠二さんは、初めて外国出身の選手、アンドリュー・マコーミックをキャプテンに任命しました。

さらに、現日本代表のジェイミー・ジョセフ監督は、平尾さんが日本代表として招へいした選手でした。

こういった平尾誠二さんの働きかけが、今の日本代表の形に繋がっているのです。

10月20日(日)の準々決勝・南アフリカ戦は、3年前に亡くなられた平尾誠二さんの命日。
ぜひとも勝利を手にして、突き進んでもらいたいです。

日本ラグビーの歴史や知られざる背景を紐解いた、今回の「趣味コレ」でした。
(minto)
 
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2019年10月16日16時30分~抜粋

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