CBCラジオ『伝令!武将が現世でラジオを始めたようです!』は、400年の時を経て現代に蘇った名古屋にゆかりの武将たちと足軽集団・名古屋おもてなし武将隊(R)。日本の歴史を楽しく紹介する歴史バラエティ番組です。
11月15日の放送では、徳川家康、加藤清正、陣笠隊の足軽・十吾の3名が出演。家康を救った恩人について取り上げました。
この日何の日?「服部半蔵正成が没した日」
話題は1597年11月14日に服部半蔵正成の死去について。
実は「半蔵」は服部家の当主が代々襲名しており、正成は2代目にあたります。
徳川家康「清正よ、服部半蔵正成と言えばどんな印象であるか?」
加藤清正「やはり神君伊賀越えのイメージでござりましょうか」
「神君伊賀越え」は、1582年6月2日未明に起きた「本能寺の変」の際、堺にいた徳川家康が命からがら領国三河へ逃げ帰った事件のこと。
その際、山間部である伊賀国(現在の三重県北西部)を経由したことが「伊賀越え」の由来。さらに家康没後、神として祀られた家康の異名「神君」を冠して「神君伊賀越え」とも呼ばれるようになりました。
実は「半蔵」は服部家の当主が代々襲名しており、正成は2代目にあたります。
徳川家康「清正よ、服部半蔵正成と言えばどんな印象であるか?」
加藤清正「やはり神君伊賀越えのイメージでござりましょうか」
「神君伊賀越え」は、1582年6月2日未明に起きた「本能寺の変」の際、堺にいた徳川家康が命からがら領国三河へ逃げ帰った事件のこと。
その際、山間部である伊賀国(現在の三重県北西部)を経由したことが「伊賀越え」の由来。さらに家康没後、神として祀られた家康の異名「神君」を冠して「神君伊賀越え」とも呼ばれるようになりました。
服部半蔵正成は忍者ではなかった
徳川家康が領国へ逃げた理由は、織田信長の次に命を狙われる恐れがあったから。
伊賀国を通過する際、活躍したのが服部半蔵正成です。
半蔵には忍者のイメージが強いものの「それは違う」と家康。
家康「実は服部半蔵正成は忍者ではない。実は正成、生まれた年・場所が同じ1542年、岡崎生まれの武将なんじゃ。
なぜ忍者の印象があるかというと、本能寺の変の際、儂を助けた多くの忍者がおったが、伊賀越えというだけあって伊賀の山奥を通らねばらならなくてのう。その時活躍したのが伊賀者たち(忍者たち)、彼らとの交渉役として活躍したのが正成である」
十吾「では、忍者を取りまとめる武将様であったのですか?」
厳密には、この伊賀越えの際は忍者を取りまとめていたわけではありません。
忍者を取りまとめるようになったのは後の話で、この時点ではあくまでも交渉役の武将でした。
伊賀国を通過する際、活躍したのが服部半蔵正成です。
半蔵には忍者のイメージが強いものの「それは違う」と家康。
家康「実は服部半蔵正成は忍者ではない。実は正成、生まれた年・場所が同じ1542年、岡崎生まれの武将なんじゃ。
なぜ忍者の印象があるかというと、本能寺の変の際、儂を助けた多くの忍者がおったが、伊賀越えというだけあって伊賀の山奥を通らねばらならなくてのう。その時活躍したのが伊賀者たち(忍者たち)、彼らとの交渉役として活躍したのが正成である」
十吾「では、忍者を取りまとめる武将様であったのですか?」
厳密には、この伊賀越えの際は忍者を取りまとめていたわけではありません。
忍者を取りまとめるようになったのは後の話で、この時点ではあくまでも交渉役の武将でした。
伊賀で忍者の家系だった服部家
では、服部半蔵正成が忍者と交渉できたのはなぜでしょうか?
家康「正成の父君の代まで、代々伊賀で有名な忍者の一家じゃった。正成の代から武将となったんじゃ」
家康は、もしこの伊賀越えが成功したら伊賀者たち(忍者たち)を召し抱えると約束。現代風に例えるなら、正社員で安定した雇用を約束するものだったとか。
家康「忍者はな、当時は何かに秀でた者、学問などに秀でた者たちが多かったんじゃ。しかし、忍者の仕事というのは都度契約みたいなもので、専門知識がありながら食うに困る生活をしておった。じゃから召し抱えるということは、安定的な生活と身分を手に入れられるということじゃ」
その後、家康は約束通り数百人の忍者を召し抱え、平和になった江戸時代になってからも城の警備をする者たちとして雇用したのでした。
その後、城の警備担当を「伊賀者」と呼ぶようになったものの、伊賀出身でなくてもなることができたとのこと。
ちなみに、現在の皇居(元江戸城)に半蔵門があります。
名前の由来は、家康に仕えた服部半蔵正成とその配下の伊賀者が、江戸城の門の警備を担当し、門の近くに屋敷を構えていたという説が有力です。
半蔵門は甲州街道に通じる西側の門で、将軍が非常時に脱出するためのルートにもなっていたそうです。
(葉月智世)
家康「正成の父君の代まで、代々伊賀で有名な忍者の一家じゃった。正成の代から武将となったんじゃ」
家康は、もしこの伊賀越えが成功したら伊賀者たち(忍者たち)を召し抱えると約束。現代風に例えるなら、正社員で安定した雇用を約束するものだったとか。
家康「忍者はな、当時は何かに秀でた者、学問などに秀でた者たちが多かったんじゃ。しかし、忍者の仕事というのは都度契約みたいなもので、専門知識がありながら食うに困る生活をしておった。じゃから召し抱えるということは、安定的な生活と身分を手に入れられるということじゃ」
その後、家康は約束通り数百人の忍者を召し抱え、平和になった江戸時代になってからも城の警備をする者たちとして雇用したのでした。
その後、城の警備担当を「伊賀者」と呼ぶようになったものの、伊賀出身でなくてもなることができたとのこと。
ちなみに、現在の皇居(元江戸城)に半蔵門があります。
名前の由来は、家康に仕えた服部半蔵正成とその配下の伊賀者が、江戸城の門の警備を担当し、門の近くに屋敷を構えていたという説が有力です。
半蔵門は甲州街道に通じる西側の門で、将軍が非常時に脱出するためのルートにもなっていたそうです。
(葉月智世)
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