2017年8月15日(火)

8月のリアリティ

RadiChubuスペシャル / カルチャー

山下達郎さんの『COME ALONG 3』。曲間を小林克也さんがノンストップDJで繋いでいく構成でクラブ的、ラジオ的なものになっているアルバム。

33年ぶりのリリースで、今回はあちこちのラジオで曲がかかり、話題にされています。ジャケットもそうですが、いわゆる80年代初頭「RIDE ON TIME」における「夏だ!海だ!タツローだ!」な感じですし、今も達郎さんのイメージといえばそこと捉える向きも多いかと思います。

でも、達郎さんの夏の曲で、私がどうしてもこの時期に聞きたくなるのが「THE WAR SONG」(アルバム『Pocket Music』収録)。
3年前の『Maniac Tour 〜PERFORMANCE 2014〜』で久々に歌われた曲でもあります。だから、ともすれば「隠れた名曲」とされがちのようですが、今に通じるというか、こんな時だから聴いていたい、聴き続けていたい作品です。

知らないけど、聞いている。

「日本の民間放送は、戦争を知りません」
そう言ったのは久米宏さん。
13年前の『ニュースステーション』(1985-2004 テレビ朝日)最終回でのことです。

放送は知らなくても、66年前の民間放送発足当時、いや、戦前生まれの放送人はもちろん健在です。
そのリアリティはいつまで続くのか。

放送局では軍隊出身の部長が現場に発破をかけて鼓舞したといった話は、枚挙に遑がないようですが、その部長は戦争帰り。
一方で鼓舞された若い制作者は、戦争を経験していても、戦地に赴いた人ではない(まだこどもだった)ので、そこは今も昔も「最近の若い奴は」ということだったのでしょう。

あなたは糸居五郎を知っていますか?

糸居五郎という人がいました。

今年50年を迎えた『オールナイトニッポン』の第一声は、この人によって発せられました。冒頭の山下達郎さんも、小林克也さんも、糸居さんのDJを聴いて育った世代です。

1921(大正10)年生まれ。当時の日本人としては稀な細身の体型、しかし、身長の割に体重がなく「それでは鉄砲がかつげない」と言われ、徴兵されることはなく、満州電信電話株式会社・放送局(俗称・満州放送)のアナウンサーとして中国・新京に渡ります。
この時のアナウンスの先生は、のちの名優・森繁久弥さんだったのです。

敗戦を大連で迎えた糸居さんは、時のソ連軍によって1年間大連で抑留。
帰国後は一時放送の仕事を離れますが、1951年、CBCラジオを第1号に始まった日本の民間放送の開局から約2ヶ月後、京都放送(現在のKBS京都)に入社。チーフアナウンサーとして活躍しました。

ゴーゴーゴーの開拓者

1954年には東京で、ニッポン放送が開局。当時はなんと、深夜放送の運営は別会社がやっていました。その名も「株式会社 深夜放送」(通称:ニッポン深夜放送)に入社。

毎晩深夜の30分の生放送『深夜のDJ』。5年後の1959年には、オールナイト放送が開始。深夜2時から4時までの『オールナイト・ジョッキー』を週4日担当。
日本で初めて、ザ・ビートルズのシングル「ラブ・ミー・ドゥ」を流したのも、この人でした。

そして『オールナイトニッポン』がスタート、1967年のことです。
「ゴーゴーゴー アンド ゴーズオン!」を自身の前口上として、深夜放送草創期を作り上げた糸居さん。ワンマンスタイルのディスクジョッキー。その支持は厚く、全国からリクエストが殺到しました。

そして1971年、50歳の誕生日には「50時間マラソンジョッキー」に挑戦。前人未到の放送に、ニッポン放送の前には、取材そして応援のために他局の中継車もやってきたといいます。

どんどん新しい曲を聴きたいんだよ。

「ジャーナルな音楽を、ジャーナルな話題で」
新しい音楽と話題を深夜に提供。生涯ずっと、新しい曲を追い求めた糸居さん。

『オールナイトニッポン』は1981年に引退。その後もニューヨークの日本人向けラジオ放送の出演や、音楽雑誌の執筆などを手がけてこられましたが、1984年12月28日に死去、63歳でした。

逝去後に出版された『糸居五郎 僕のDJグラフィティ』(第三文明社 1986年)を読み直すと、糸居さんは「ジャーナルな音楽を、ジャーナルな話題で」を信条とし、生涯ずっと、新しい曲を追い求めたきたことがわかります。

「このような耳の職業についていなければ、チャーリー・パーカーとかMJQ(モダン・ジャズ・カルテット)とか、当時を懐かしみながら音楽を聴いてるだろうネ。でも今はそんな時間あったら、どんどん新しいものを聴きたいよ」(1983年2月)。

糸居さんはいつも、新しいものに耳を傾けていました。

1981年6月、最後の『オールナイトニッポン』を終えた午前6時、糸居さんはこんな言葉を残していました。

「昭和20年の夏、僕があの敗戦を大連で迎えた時、まわりの日本人はみんな慟哭して居たよ。だけど、僕は不思議に泣けなかった。これから、ユダヤ人のような長い放浪な旅が始まるんだな。思ったのは、それだけだった」


河野虎太郎
放送作家。歴史や故人に「たら・れば」は禁物だけど、今の「フェス」を糸居さんだったらどう見ただろうか。会場を歩き回っていたんじゃないかと、ふと。

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