名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻

若き織田信長の出世城となった清州城とは

400年前より現代に蘇りし戦国武将の集団・名古屋おもてなし武将隊(R)が、ラジオ界の天下一を目指す番組『戦国音絵巻』。4月19日の出陣は織田信長前田慶次、陣笠隊の足軽・踏舞の3名でした。

標題の清州城。青年期の織田信長が居城にしていました。
この城から桶狭間の戦いへ出陣したり、徳川家康と同盟を結んだりと、若かりし頃の信長にとって大切な場所。信長が本能寺の変で斃れた後も、重要な話し合いの舞台にもなりました。

「週刊戦国年表」のコーナーではどんな出来事が取り上げられたのでしょうか。

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今週の週刊戦国年表

4月19日から4月25日の期間、戦国時代に起こった出来事を取り上げる「週刊戦国年表」。
今回の出来事は、1555年(弘治元年)4月19日に織田信長が清州城(清須城)を奪取したことについて。

織田信長はこの日、叔父の織田信光と手を組んで清州城守護代だった織田信友を殺害し、清州城の城主となりました。
大規模な戦いによって清州城を奪ったわけではなく、事前に叔父の織田信光と綿密に打ち合わせており、調略によって奪ったのでした。

清州城は、織田信長が青年期、拠点にしていた大切な城です。
信長はこの城を拠点にし、桶狭間の戦いに出陣したり、三河の松平元康(のちの徳川家康)と清州同盟を結んだりと家督を継いだ後10年ほどこの城を拠点としていました。

若かりし頃の信長にとって、いわば出世城だったとも言えますね。

その後の信長は、小牧山城→美濃の岐阜城(稲葉山城。かつて斎藤道三が居城にしていました)→近江の安土城と居城を変えていきました。
 

清州城ってどんな城?

清州城は、尾張国春日井郡清須(現在の愛知県清須市一場)にあった城。
京都と鎌倉を結ぶ鎌倉街道と伊勢街道が合流し、中山道にも連絡する交通の要所にあり、何かあったときには重要な拠点となる場所です。

築城されたのは、室町時代後期(1375年または1405年と言われています)。尾張国の守護であった斯波義重(しばよししげ)によって築城され、一時は尾張の守護所として中枢の役目も果たしていました。

現在の清州城天守は、1989年(平成元年)に清洲城跡に隣接する清須市清須地域文化広場内に建設された鉄筋コンクリート造の天守です。創建当時の絵図は残されていないので、どんな城だったのかわかっていません。そのため、外観や規模は、実在した当時を想像して作られたもの。
タイムマシンがあったら、ぜひ当時の城を見て見たいものです。
 

本能寺の変後の清州城

1582年(天正10年)6月2日早朝、織田信長は明智光秀に急襲され、自害してしまいました。本能寺の変です。
信長が後継者としていたのは息子の織田信忠。信忠も宿泊していた京都の妙覚寺から二条御所に移って戦ったものの、父を追うように火を放って自害してしまったことが混乱のもとに…。

信長を自害に追い込んだ明智光秀は、中国大返しで戻って来た豊臣秀吉と山崎の戦いで激突し敗北。逃げていた最中、小栗栖の藪で落ち武者狩りの農民に殺されたと言われています。

ここで問題となるのが織田家の後継者問題。
信長の息子は次男の織田信雄と、三男の織田信孝が残っており、互いが後継者だと主張して揉めてしまいます。この隙をついたのが豊臣秀吉でした。

信長の嫡孫だった幼い三法師を跡取りにすることで決着をつけてしまいました。これらの会議が行われたのも清州城。後に伝わる「清須会議」です。

その後の秀吉は天下人へのし上がっていきました。
織田家の血筋は、秀吉の側室となった淀君(信長の妹、お市の方の長女)や徳川秀忠の正室となったお江の方(お市の方の三女)から豊臣家・徳川家に受け継がれますが、豊臣家は大坂の陣で滅亡。徳川家の血筋に残りました。

清州城は、名古屋からも近く現在の清州城内には資料も展示されています。
若かりし頃の織田信長を偲んで、訪ねてみてはいかがでしょう。
(葉月智世)
名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻
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2021年04月19日21時15分~抜粋

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